アポリア



男性の朝は早い。
セットしてある目覚まし時計が音を立てる前に目をさまし、上ったばかりの太陽の光を全身に浴びる。軽くシャワーを浴び、目玉焼きと焼いたパンで簡単な朝食をとって、ニュースを見る。スラックスを穿いてシャツを羽織り、去年買ったサイフォンで淹れたコーヒーを手にしたら、準備は完了だ。
男性が一人暮らしをしているアパートは、大学に近い。彼が学生だった頃に学校に近いからという理由で住むところを選んだから当然だ。大家さんも優しく住み慣れてしまったアパートは、就職した職場が遠くないこともあって引っ越すには惜しかった。もう住み始めてから八年ほどになるだろうか。
このアパートでは、多くの大学生が登下校のために通っているのを見ることができる。窓を覗けば、カップルで楽しそうで連れ立って歩いていく姿や、遅刻寸前に自転車を必死で漕いでいる姿が垣間見えるのだ。
そして青年がコーヒーを飲む時間、つまり七時ころ。毎日のようにアパートの前を通る一人の青年のことを、男性は心待ちにしていた。



毎日同じ時間に同じ人物が登校していることに気付いたのは、半年ほど前だっただろうか。
男性の朝が早いのは前々からであるし、コーヒーも朝のニュースの後飲むことにしているので学生の姿を眺めている時間も毎朝変わらない。その毎日同じ時間に、毎回見える顔がある。気になってしまったらもうだめで、今日はいるかなと探してしまうようになっていた。
栗色の軽そうな髪を風にはたはたとなびかせて、眠たそうに猫背のまま歩く。遠目に見ても甘く整った顔はどれほどだるそうな表情をしたところで人の目を引いた。それは男性も例外ではなく、目に入ってからはどうして今までこんなに目立つ男に気付かなかったのかと不思議に思ったものだ。
それからは、朝に青年を確認することが日課になった。髪を切ればおしゃれだなあと感心したし、マスクをしていれば風邪だろうかと心配になる。朝現れないならサボりだろうかと気になり、あくびをしたなら寝不足だろうと苦笑した。
男性は青年を眺めているのが好きだった。仕事仕事の毎日の中で、いつも変わらず億劫そうに歩いている青年の姿にはなんだかほっと力を抜けるものがあった。
今日も学校があるんだ。今日も朝早くから頑張っている。ああ、俺も頑張らないと。でも彼みたいに力も抜かないと。
男性は青年のことについて何も知らない。母校の後輩であろうことは間違いないけれど、それだけだ。何年生なのか、どの学部なのか、名前すら知らないのだ。それでも確実に青年は男性にとっての心の支えになっていて、朝に顔を見るたびに、徐々に徐々に男性の頭の中を占めていくようになる。
そして、ある日。友人と連れ立って歩く青年を見たとき、男性はふと気づく。
あ、好きだ。
初めて笑顔を見て、それが自分に向けられたものではないことを知って、幸福なような悲痛なような気持ちに苛まれた。昔付き合っていた女の子に抱いていたような、甘酸っぱくて苦しい感情。暇な時間ができるたびに青年の顔が浮かんできて、溜め息は日増しに切なさを帯びていった。
胸を埋める感情が恋だとは気付いている。けれど、今までのどんな恋人よりも、青年を思うときの男性は恋しさにおかされていた。それが男性を困惑させる。
好きすぎて臆病になることなどそれまで一度もなかったのに。性別も年の差も気になって気になって、青年に声をかけるなんてことは絶対にできなかった。気持ち悪いと罵られることも、おじさんだとからかわれることも怖くて仕方がない。
相手に気付かれないような距離感で、毎朝顔を見ていられればそれでいいのだ。
この恋の成就の仕方を、男性は思いつくことなどできなかった。



砂糖を一杯溶かし込んだコーヒーを啜り、窓の向こうへ視線をやる。彼はまだ来ていないらしい。どきどきと鼓動を早める心臓を無理やり無視して、涼しい顔を取り繕った。
いつもと同じ猫背が目に入って、一瞬だけ息を止める。ああ、今日もかっこいいなあと、男性は緩みそうになる唇を隠してマグカップを持ち上げる。眠たげに細められた相貌。ゆるくセットされた髪。長い手足にセンスのいい服装。他の誰よりも青年の指先のほうに心惹かれてしまう。それがあまりにくすぐったくて切なくて。
「かっこい……」
ぽそりと、思わず言葉が漏れてしまった。
それが聞こえたのか、いや、聞こえているはずなどないのだけれど、青年はなぜか何かに気付いたような表情で顔を上げる。
あ、と思う間もなく、二人の視線が交差する。ぶあっと頬に集まる熱に、男性は叫びだしそうになっていた。目があった。彼が自分のことを認識している。これまで一方的だったはずの行為が急に意味を持った気がして、涙が出そうだと思った。
そのうえ、青年が綺麗に顔をほころばせて笑うものだから、いつか彼の友人に向けていたものよりずっと優しげな笑みを浮かべるから、男性はもう窓のほうを向くことなどできなかった。
頭の芯がぼうっとする。目の奥が熱い。混乱している脳みそでは、青年の笑顔の意味を考えることも、それどころかもう一度あの表情を思い返すことさえ憤死してしまいそうでできはしない。今自分がとてつもなく彼のことを好きなのだと、もうそれしかわからない。
この恋の成就の仕方も、死にそうなほどの苦しさから逃げる方法も、男性は知らない。答えを知っているはずの青年はくすりと笑う。
もうすぐ、答え合わせの時間がやってくる。





END.



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