救いの日はとおく






お前なんか。低い声が生ぬるく僕の耳をこじ開ける。お前なんかお前なんか。言われるたびに隙間風の吹き荒れていた胸が満たされていくようだ。もっと言ってくれないだろうか、もっと僕を貶して、蔑んで、罵倒して、そうして僕を救ってくれないか。
お前なんか。低い声は震えている。
お前なんか。僕は今にも笑い出しそうに、その声を聞いている。
別にとても楽しいだとか、そういうわけではない。むしろ体の調子的には最悪で、退院を許されたとはいえ足はまだギブスをはめたままであるし、念のためとまかれたままの頭の包帯も息苦しい要因だ。何より、僕の上にまたがった男に押さえつけられた肩。ぎしぎしと音をたてそうなほど強く掴まれたせいで喉から唸るような声が漏れだしそうになる。床に倒されたわけではないだけましだろう。リビングに置かれた団欒用のソファは、僕の体を悠々と受け止めてくれる。

「お前なんか」

呪詛のように言葉が繰り返される。僕の体に乗り上げた彼は、決して目を合せようとしない。いったいどこを見つめているというのか、一心に顔を俯けさせている。彼の目は何色だっただろう。長い前髪が邪魔で、答えあわせをすることができない。
もう一度、声が僕に降り注いだ。お前なんか、なんだというのだろう。どんな言葉が後に続こうと、僕は笑ってそうだねと応えるんだろうと思う。そうだね。全部君が正しいよ。僕が間違いだ。僕なんか。僕なんか。

「いなければよかったのに」
「そうだね」
「しんでしまえばよかったのに」
「そうだね」
「うまれてこなければよかったのに」
「そうだね」
「……しんでくれよ」
「……そうだね」

言葉は重くそして鋭いけれど、僕はそれに傷付いたりはしない。そのとおりだった。僕なんていなければよかったし、あのときしんでしまえばよかったし、それならもううまれてこなければよかったし、いっそのこと今から命を投げ出してしまいたい。彼の言葉は真実だ。だから僕は、その鋭い言葉が僕の胸に切り込んでくるたびに、癒される。痛々しいがためにずっと優しい、ずっと真摯な彼の声。
彼が僕を否定するほど、僕は救われる。
つと、彼が顔を上げた。というより、僕に顔を向けた。前髪が今にも僕の鼻先を擽ろうとしている。至極近く、まさに目と鼻の先で、彼は僕を見た。その目は僕の記憶となんら変わらずビー玉のように澄んでいて、僕の記憶にはないくらい歪んでいた。
どうして、と、唇が動いた。何について尋ねているのか分からないから僕は口を噤む。また、どうしてと、唇がねじれて瞳が歪む。
特別な事故ではなかった。車の運転手が携帯で話していて、僕も青信号だからと周囲を気にすることもなく道路を渡って。足の骨を折ったり頭をぶつけたりしたけれど命に別状はなかった。友人は心配して、同時に無事でよかったと喜んだ。両親も同様。ただ、目の前の男、弟を除いて。
仲の悪い兄弟だ。弟は僕のことを嫌っている。自慢じゃないが勉強も運動も人並み以上にできて、友人も多く、顔立ちこそ兄弟で似通っているけれど、どちらかというと兄である僕を優秀だとみる人間のほうが多かった。お兄ちゃんは、お兄ちゃんの方が。そう周囲の人間から言われ続けた弟は、いつしか僕をひどく厭うようになった。これまで直接口に出されたことはない、けれどその視線が、声音が、僕のことを邪魔だと言ってくる。
だから事故があったとき、弟はきっと喜んだに違いないのだ。僕がいなくなれば弟は兄の影から解放される。自由になって、誰も僕たちを比べることがなくなって、彼はようやくただ一人の人間として自分を認めてあげられるんだろう。
それなのに僕は生きていた。大けがを負って、それだけ。見舞いに来た日、弟は両親の目を盗んで言ったのだ。どうして生きてるんだよ。僕は、ああやっと言ってくれたのかと微笑んだ。
見舞いに来るたびに罵られた。何を言われようと僕は口元に笑みを含み、時折相槌を打って、嵐のような言葉を受け入れた。僕と決して目を合わせることをせず、彼は延々と、僕にいなくなってほしい旨を訴え続けた。
弟が喚けば喚くほどいい子ちゃんな僕が求められていないことを知る。僕がいなくなって喜んでくれる人がいることを知る。僕は完璧でなくていい。誰からも好かれる人間でなくていいのだ。そう、思い知ることができる。
弟が僕を否定して。生を呪って、死を望んで。そのたび僕は呼吸ができた。消えろと思われた分だけ生が伸びた。弟にしてみたら迷惑な話だ。
僕は救われる。己が死んだ方がましな人間であるという事実に、安堵する。
ぎしりとソファが軋んだ。いつの間にか肩を掴んでいた弟の両手は僕の首にかけられていて、力こそ入れられてはいないものの、その手はあからさまに僕を排除しようとしていた。ああこれは病院ではできなかったことだと冷静に考える。本当は事故が事故ではなかったのだと、この弟は知っているだろうか? 彼が僕を苦しめたいがためにしていることが僕の望みであるのだと、彼は、知っているのだろうか。
そうだ、死にぞこないの亡霊だ。弟の言葉で辛うじて生かされる腐りかけの人間だ。
いっそころしてくれ。
ビー玉が揺らぐ。低い声が湿り気を帯びる。救世主は僕に似ている。

「どうして否定しないんだよ」

否定してくれるのはお前だろう? 心の中で返事をして目を閉じた。唇を覆った熱が、僕の笑い声をかき消していく。





END.

2014/11/10


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