タイムリミット、シックス、ゼロ

記憶喪失もの





白と透明は別物だ。白く塗りつぶされたからといってなかったことにはならないのだ。何かを消すことは許されない。誰にも、神さまにだって。
だからだから、諦めることはできないんだ。もう。



病院の落ち着かなさはなんだろう。どこもかしこも白塗りなところか、あちこちで聞こえる咳の音か、漂う陰鬱な匂いか。何が原因だっていいけれど、病院で長時間を過ごすことは健常な人間にとってあまり良い影響を与えはしないのだろうと思う。
僕はいたって健康で、熱もここ数年出していないくらいで、普通ならば病院とは縁がない人間だ。だから余計に、この真っ白な世界に飛び込むとむずむずと落ち着かない気持ちになる。
それでも通うことをやめはしない。部活にも入らず、バイトもせず、成績もそんなによくない僕が、授業が終わり次第学校を飛び出すのを不思議に思うクラスメイトはきっと多いことだろう。それくらい僕は頻繁にここへ通っている。ほぼ毎日。
あの人に、会うために。
昨日も訪れた部屋の扉を、今日もまたノックする。返事がこないのもいつものことだ。僕はたいして気にすることもなく、勝手にドアノブを捻った。
扉の向こうには一人分のベッドしか置かれていない。病院側の配慮で、彼はずっと一人部屋だ。あまり彼を刺激してはいけないということで、同室者もいないし最低限の身の回りのものしかこの部屋には置いていない。殺風景すぎる部屋の様子は、から咳の聞こえる待合室よりもずっとさびしくて痛々しい心地がする。
彼は目を覚ましているようだった。扉の開いた音に反応してこちらを見ている彼の目には、驚きと不審が滲んでいる。

「あんた、だれ?」

僕は思わず吹き出す。その言葉、昨日も聞いたよ。

「なに。冷やかしなら帰ってくれる」
「ごめんなさい、そうじゃないんです。僕はあなたに用があって来たんですよ」
「おれに?」

不機嫌に唇を尖らせた姿に内心でもう一度笑い声を上げながら、僕はあやしい者ではないと身振り手振りで示して見せた。彼は一瞬目を丸くして、ぷいとそっぽを向く。

「ここ、どこだよ。おれはなんでこんなとこにいるの。……なんでおれ、自分のこともわかんないの」

幼い子どものような弱気な言葉。僕よりいくつも年上の彼はいつだって自信満々で、僕には弱いところなんて決して見せようとしなかった。だから、こうして不安げな様子を見ると胸がそわそわとしてくる。
彼の弱い部分を、ずっと見せてほしかった。僕には内緒にしていたんだろう本当の彼を知りたかった。その願いがこんな形で叶うなんて、望んでいやしなかったのに。
部屋の隅に置いてあった椅子を、彼の座るベッドの横に並べる。昨日も腰かけた椅子は、もう何度も何度も使っているからかぎしぎしと音がうるさい。それに反応して彼が僕のほうを見る。
その、目が、僕は好きだった。ずっとずっと好きで、同じくらい憎らしかった。

「ここは病院ですよ。僕はあなたのお見舞いに来たんです」
「病院? おれは何かの病気ってこと?」
「はい。一時的な記憶障害……、記憶喪失だって、先生からは聞いてます」
「記憶喪失……」

ぽつりと吐かれた言葉に悲壮感はない。この反応もいつもどおり。自分がなくしてしまった記憶がどんなものなのか分からないからなのか、彼はとくに自分の状態について悲観することはない。
ただ、申し訳なさそうに僕を見るのだ。僕の愛する色をした目で。

「じゃあおれ、あんたのことも忘れてるんだ。ごめんな、見舞いにきてくれてるのに」
「いいんです。僕はあなたの症状のことも知っていて来てるんだから」
「そっか。うん、そっか」

薄く笑った彼は、窓の外へ視線を投げた。それを確認しながら、僕はそっと時計を確認した。
彼が目を覚ましてからどれくらいの時間が経っているのだろう? 五分? 三十分? それとももっと長いだろうか。時間が過ぎるのはあっという間すぎて、僕は彼と過ごす時間を満足に使えた試しがない。少し話して、黙って。また少し話して、黙って。
一時間はあまりに短い。

「聞かないんですか、あなたのこと」

静かに窓の外を見ている彼のうなじに声をかける。

「聞かない。教えてもらうんじゃ意味ないだろ、自分の記憶のことなんて」
「でも、そうしていても思い出せないでしょ」
「そうかな。……じゃ、おれとあんたの名前だけ教えてくれる」

さらりと、いつしか長く伸びた髪が彼の肩を撫でる。僕はごくりと喉を鳴らして、二つの名前を紡ぎだした。
彼は軽く首を傾げて、空を見つめる。何か考えるそぶりをして唇を軽く噛んで、そうしてちょっとだけ微笑んだ。わかんない、なんて、本当の子どものように言いながら。
安堵していることを表情に出さないように気を付けて、僕は眉を下げた。冗談っぽく軽く肩を竦めたのは、あまり気にさせてもかわいそうだからだ。こんなことになってしまったのは彼のせいじゃない。なにも、気にすることなんてないんだ。
また沈黙が落ちる。時計の秒針が足を進める音だけが僕たちを包んでいる。タイムリミットが迫ってくる。
彼は何も知らない。記憶を失ってしまったのは僕のせいだってこと。彼の記憶が一時間しか持たないこと。目を覚ます度に記憶がリセットされてしまうこと。僕たちのこと。彼はなんにも、知らない。
事故に遭いかけた僕をかばったりするからこんなことになってしまうんだ。昔から意地悪で、喧嘩もよくして、でも僕のピンチにはいつもかけつけ助けてくれたヒーローみたいな人。意地っ張りで無愛想だけど、僕の大好きな彼。
僕の、彼のことを思う気持ちに別の色が混ざった日から、おかしくなってしまったのだろうか?

「あんたの」

ぼうっと彼の指先を見ていたせいで、見つめられていることに気付かなかった。顔を上げると、真っ直ぐに向けられていたらしい視線。かちりとあったそれに、頭がずきりといたむ。
秒針が進む。時間は止まらない。戻らないのと同じように。

「あんたの目の色、すごくきれい」

僕もそう思うよ、とてもとても美しくて、憎らしい色だ。
好奇心の赴くまま覗き込んでくる彼に笑いかけて、これ以上目を合わせまいと布団に寝かしつけた。またも唇を尖らせるのを視界の端で観察しながら掛け布団をぽんと叩く。

「さあ、寝てください。まだ体調は万全じゃないでしょ」
「さっきまで寝てたから平気。な、帰るの?」
「……そうですね、そろそろ帰らないと」
「そっか。また来る?」
「はい。また」
「……そっか」

またな、と唇が音を奏でる。すうっと瞼が下ろされる。何回何十回何百回と繰り返された、彼の記憶が消える瞬間を、僕はまた彼の隣で迎える。
寝息が聞こえてきたのを確認して席を立つ。静かに扉を開こうとして、ガラスに映った自分の顔に自嘲した。
彼が綺麗だと言った目の色。僕はこの色を愛していた。それと同時に嫌悪もしていた。彼の瞳の色と同じ、この色を。
神さまは僕に何をさせたいんだろう? たった一時間で、何をすればいいのだろう?
兄弟であるというのに彼のことを愛してしまったことを謝ればいいのか。それとも、彼に思いを告げたあげく逃げ出したこと、もしくは、追いかけてきてくれた彼に庇われ記憶を失わせてしまったこと? もういっそのこと、思いのたけをすべてぶつけてベッドに縫い付けてやればそれで満足なのか。
ああ、それか、諦めろとでもいうのか。彼のことを、兄さんのことを諦めればいいのか。兄弟に戻れば、それで許してくれるのか。
そんなこと、今更できるわけないのに。
病院の廊下は、病室に負けず劣らず真っ白だ。たぶん、今の兄さんと同じ。真っ白いペンキで何度も塗りつぶされた記憶は、たしかにそこにあるのに元の色のまま戻ってきはしない。弟の存在も、弟が抱いた不埒な感情も、あの人はすべてすべて、なかったことにしてしまった。
それでも、白と透明は別物なのだ。消えてしまいはしないのだ。
かちりと、頭の中で秒針が鳴った。明日僕がまた色を塗るまで、一時間は繰り返される。ペンキが底を尽きるまで。





END.

2014/05/27


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