無名の動脈

死ネタ。若干NL表現あり。





親友という言葉の意味を知らないままでいたかった。関係に名前なんてつけなければよかった。人間なんて皆馬鹿だ。定義なんてしなければ、すべて曖昧でいられたのに。
だから俺は名前をつけない。俺の部屋に住む男は、ただ小崎という名前の男でしかない。幼いころから知っていて、高校まで同じで、ただ、俺が面倒を見ることになってしまった哀れな一人の男。それだけだ。
眠りの淵から引きずり出されて、怠いままの体で小崎の様子を見に行った。彼は相変わらず眠れたのか眠れていないのか分からない、夢見心地のような目をして、けれどひどく体をこわばらせている。
固く握りしめられた掌に触れる。冷え切ったそれは簡単にほぐれはしない。指を一本ずつ、丁寧に引きはがして、ようやく開かれる。昨日爪を切ってやったはずなのに、一体どうやっているのか、掌は傷だらけだった。爪が食い込んだのだろう、血がにじんでいる。
俺は唇を引き結んで救急箱を手繰り寄せた。放っておくとすぐ傷だらけになりやがる。無言で治療する俺のことを、小崎はじっと、ただ見ていた。



小崎の妻子が亡くなったのは、先月のことだった。
事故だったと聞く。奥さんの運転する車にトラックが追突し、同乗していた子どもと一緒に帰らぬ人となった。小崎が結婚して、五年目のことだ。子どもはまだ、三歳だった。
葬式には俺も出席した。俺に向かって礼をした小崎は、俺の知る奴ではなかった。落ちくぼんだ目と、ガサガサな肌。身なりこそかろうじて整えているが、健康かと言われると誰もが首を横に振っただろう。体もそうだが、精神がやられていると思った。小崎は俺に、何を言うよりも先に、久しぶりだななんて笑ったのだ。
少しの間音沙汰がなかったが、一週間ほどして俺の両親が小崎をつれてマンションまでやってきた。葬式で会ったときよりも痩せてボロボロになった小崎は、過去の快活として皆から頼りにされていた姿からは程遠い。
仕事に行けていないのだと聞いた。小崎は近くに身寄りがいないから、何かあると昔からの知り合いである俺の家で面倒を見ていた。
両親は俺に言った。親友なんだから、落ち着くまで一緒に暮らしてあげたら? 
俺は何も言い返すことも出来ず、小崎を家に上げた。まるで幽霊のようだった。体はふらふらと、引っ張る方向についてくる。視線は虚ろで、何を見ているのか定かじゃない。会話は成立するけれど、いくつか言葉を発すると疲れたかのように視線を下ろす。そしてぼろぼろと泣くのだ。まるで小学生に戻ったみたいに。嫌だ、嫌だ。どうして俺だけ残されたんだ。一緒にいきたかったと、泣くのだ。
しまいには、俺が目を離したすきに包丁を持ち出して自殺しようとしやがった。未遂に終わったけれど、それ以来こいつに刃物はもちろん少しでも危ないものは近づけさせないようにしている。
仕事が在宅のものでよかった。俺は四六時中小崎とともにいて、小崎の面倒を見た。話しかけて、慰めて、背中を撫でて、飯を食わせて眠らせた。
ああ、俺は、俺は。名前をつけるのが嫌だった。小崎は小崎で俺は俺でよかった。親友なんかじゃ嫌だった。だからといって恋やら愛やらと名付けるには、あまりに俺の感情は薄汚かった。
小崎が欲しかった。誰のものにもしたくなかった。こいつの妻や子どもなんてものがこの世に存在することが理解できなかった。だから小崎になんて、会いたくなかった。
全部過去のことになっていたのだ。俺たちが親友だったことも、こいつが俺のことを友人だと思って笑いかけてくれたことも、俺がこいつのことを憎らしいほど愛していたことも、もう過去のこと。
過去のこと、なのに。

「なあ、アキ」

小崎が俺の名前を呼ぶ。何年も何年も、数えきれないくらいに呼ばれた名前。家族に呼ばれるのはわずらわしくても、小崎に呼ばれるのならば何の不満もなかったものだ。
胃に優しいだろうと食べさせたおかゆが、口の端についている。そんなこと意に介さず、小崎はにこりと笑う。ああこれは、中学生のころみたい。何でもできると思い込んでいた、中学生のころの笑顔。

「カナはどこだ?」
「……小崎、カナさんは」
「この飯、あいつが作ったんだろ? どこにいるんだよ。ユウキもだ、そろそろ昼寝の時間だから」
「小崎」
「なあ、どこだよ?」
「小崎」

小崎はきょろきょろと辺りを見回している。ここは俺の部屋で、小崎対策にベッド以外のものはほとんど置いていない。そもそも、カナさんもユウキちゃんも、もうこの世にはいない。

「ほらさあ、聞こえるだろ。あいつの鼻歌。下手くそなくせに料理しながら歌うのやめなくてさあ、でもユウキはそれが好きみたいで、二人一緒にキッチンでふらふらしてさあ」

危ないから集中して料理しろって、言ってやらないと。
にこにこと笑って、小崎は立ち上がろうとする。慌てて俺は腕をひいた。ここ一か月まともに動いていないのだから体力も底をついていて、軽い力で簡単に床へ戻ってくる。けれど小崎は諦めない。何度も、カナの声が聞こえると譫言を言いながら立とうとする。俺も何度でもそれを防いで、そのうちに小崎は、両手足をばたつかせて俺から解放されようとし始めた。
その目に俺は映っていない。妄想の妻子が小崎のことを呼んでいて、そこへ向かって行こうとするのみだ。
昔からそうだ。こいつは俺のことなんて見てやしない。親友だと言っていたけれど、彼女ができれば放っておかれた。俺に彼女ができれば簡単にダブルデートをしようなんて言いやがった。何か悩んでるのかなんて言いながら、恋愛相談なら乗るぞなんて笑ったりもしたんだったか。
小崎は俺のことを見ていない。いつも、いつも。俺はそれが悔しくて悲しくて、こいつとの関係に名前をつけることをやめたのだ。

「アキ」

渾身の力で床に押さえつけていると、唐突に名前を呼ばれた。さっきまで際限なく妻子の名前を呼んでいたというのに。声の響きも必死だったのが嘘のように穏やかになっていて、誘われるように俺は顔を上げた。
小崎と、目があった。充血した瞳は、それでもなお凪いでいた。理性のともった視線に俺は一瞬呼吸さえ忘れて見入ってしまう。頭がおかしくなってしまったのだとさえ思っていた、その小崎が、俺を真っ直ぐに見ている。

「俺さ、知ってたよ」

静かに、低い声で紡がれる言葉。一音一音が風の音のようにひそやかに、けれどはっきりと俺の耳を愛撫していく。

「お前が、俺のこと好きなの、知ってた」

だから、俺、お前にころしてほしい。
そう言って微笑むから。俺が好きだった高校時代のままの笑顔で、俺を親友だとのたまったときの笑顔で言うから。俺は空気の味も分からぬままに飲み込んで、歯を食いしばることしかできない。
ぎゅうと力を込めて、歯にも、指にも力を込めて、俺は目いっぱい小崎の首を押さえつけた。
首は記憶よりずっと細くなっていた。骨が浮き出て、血管の感触がすぐ皮膚の下にある。俺の手の中に小崎の生がある。なんてことだろう、なんて、なんて、残酷なことだろう。
ごめんごめんと謝りながら、俺は首を絞め続けた。いつの間にか泣いていたけれど、小崎は決して涙を流すことはなかった。ずっと微笑んで、最初から最後までただ安らかに、死を待っていた。彼の終わりを、待っていた。
だから、気付いてしまうのだ。いや、初めから気付いていた。
小崎の表情があまりに安らかだから、穏やかすぎるから、彼がようやく解放されたのだということに気付いてしまう。愛した人達のいない生から逃れることだけを考えていた。死にたいと、彼女らのもとへ行きたいと、それだけ。

「だから、俺に頼んだの」

音にならないような言葉を呟く。脈拍はもう感じられない。表情はどこまでもどこまでも優しくて、俺はどこまでもどこまでも苦しい。



こいつは俺を見ない。決して、最初から最後まで、俺を見ない。
そのくせこの男は勝手気ままに強欲だ。名づけられるだけの時間もなく、俺の思いはすべて、持っていかれてしまった。もう一生、取り戻すすべもない。





END.

2014/05/27


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