お別れ消費期限

死ネタ。バッドエンド。





夜の闇が窓の向こうから忍び寄ってきている。薄いベージュのカーテンは意味を持たずに、しんなりと肩を落としたまま微動だにしない。けれどもしかしたら、外から襲い来る魔物から守ってくれているのかもしれなかった。
今日は一日ひどい嵐だった。僕は朝から店にいるけれど、雨が激しくなるという予報が前々からされていたからか、小雨でしかなかったころから客は本当にまばらにしか来なかった。昼頃から風も雨の勢いも強くなり、出歩く勇気のある人はそうそういないだろう。時折窓を鳴らす雨音が余計に客足を遠ざけているのだ。かく言う僕も、帰りをどうしようかとずっと悩んでいる。
しかしたった一人だけ客がいた。あまり広いとはいえない店の隅っこで、誰かから隠れるようにちびちびとグラスを傾けている。くたびれたように丸まった背中と、常に下をむきがちな視線。中年といえる年齢のその人のことを、僕は知っていた。
この店は、昼間は喫茶店としてお茶や軽食を扱っている。その昔都市部で腕を磨いたという店長の作る食事は評判がよく、普段はそれなりに客も来るのだ。だが夜になると、酒と簡単なつまみ程度しか出さないようになる。酒を飲もうにも家庭がある上に生活に余裕がないという人が多いらしく、残念ながらあまり人が寄りつかない。たまに家から追い出されたというおじいちゃんや仕事や家庭に疲れ切った男性が喚き散らしに来る程度である。そもそもこのあたりはあまり人が住んでおらず、昼間と違って店長の料理も出てこないのでわざわざ遠方から人が来るはずもない。酒を扱うのは趣味のようなものだと大酒ぐらいの店長が笑っていたので売り上げがなくてもたいして問題はないんだろうけど。
場末の飲み屋。常連なんてほとんどいない。その、珍しい常連の一人が、この男性なのだ。
白髪交じりだけれどしっかりとした髪、顔立ちは若い頃は大変にもてただろうと思わせるほどに整っている。体つきも特別太っているということもなく、どちらかといえばすっきりとしている。その人は男前だった。
しかし、雰囲気というのだろうか。僕が見てきたかぎり、彼はあまり人ひきつけるような人ではなかった。表情はいつも暗く、俯いたまま顔を上げることなどほぼない。服装も薄汚れているしグラスを握る手には細かな傷がいくつもついているのを知っている。人生に疲れ切って、もう何も考えたくないと耳を塞いでいるような、そんな印象を受けていた。
常連であるけれど言葉を交わすことなど滅多にない。偶然時間を共有した客と店員、それ以外の関係になどなりようもない人。
それなのに、どうしてなのかと問われたら答えようがない。ささくれだった雰囲気か、今にも空気に溶けて消えてしまいそうな儚さか。顔のよさかもしれない。とにかく何かが理由で、僕はその人のことが何となく気になって仕方がなかった。店に来たら毎回さりげなく視線を向けてしまうくらいには。
がたんと、突然窓が鳴った。どうやらひときわ強い風が吹いたらしい。カーテンは相変わらず静かにしているけれど、きっとその向こう側はすごいことになっているのだろうなと憂鬱な気持ちになる。

「濡れるかな」

ついぼそりと呟いてしまう。いつも徒歩で通っているので今日も傘以外に雨から身を守るものを持ってきていない。たまに家へ送ってくれる店長も買い出しに行った先で足止めを食らっているようで、そもそも僕は今日帰ることができるのだろうか。
思わず溜め息を吐きそうになって、固まる。視線を感じた。いつもの席に座っている、あの男性だ。テーブルを見つめていたはずの視線を僕の方へ寄越して、何やら不思議そうな顔をしている。

「……あの、どうかされましたか?」

何か不手際があっただろうか。いつもと同じ酒に、つまみ。出しているものはこれまでと変わり映えしないのだけれど。何も言わない男性に不安になって尋ねてみれば、男性ははっとしてから苦笑を浮かべた。
笑った。この人だって人間なのだから笑うことくらいあって当然なのに無償に感動して、僕は息を呑んだ。

「すみません、不躾に。何かおっしゃられたようだったので」
「あ、ああっ。こちらこそ申し訳ありません! 独り言だったんですが、仕事中だということを失念していました!」
「なるほど。気にしないでください。こんな雨じゃあはやく帰ってしまいたいでしょう、私がいるせいでそれもできないんじゃないですか」
「そんなことは……」
「私もそろそろ引き上げようかと思っていたんですが、だいぶひどくなってきたようで足踏みしていたんです。せめてもう少し雨脚が弱まればなあ」

困ったように眉を下げる。くたびれた姿は健在なのに、表情がゆるまったというそれだけでかなり柔らかな雰囲気になったような気がする。ずっと不機嫌寄りな真顔しか見てこなかったのでなんだか不思議な感じだ。
この人はこんな声だったっけ。考えていると、同じようなことを思ったのか、男性がくすりと笑った。

「今まで話したこともありませんでしたね。長く通っているのに」
「そういえば、そうですね。いつもご贔屓にしてくださってありがとうございます」
「いえいえ」

男性は楽しそうにグラスを傾けた。度数のかなり強いこの酒を二杯ほど飲んですぐに返っていってしまうのがいつもの彼だ。けれど今日は、本人も言っていた通り雨のせいで帰るに帰れなくなってしまったのだろう。どうせ僕も閉店時間までは店にいなくてはならないので別にいいのだけれど。
雨だけれどいい日だなあ。常連さんと言葉を交わせたことが嬉しくて、僕もひっそりと笑う。男性も頬を弛める。

「ああ、なんだか、いい夜だ」

ぼそりと男性が呟く。僕の思ったことと同じだ。

「こんな夜にはいろいろなことを思い出しますね」
「いろいろなこと、ですか」
「ええ。ねえ、店員さん。他にお客もいませんし、私の話を聞いてくれませんか」
「それはもちろん」
「よかった。ところで」

微笑んでいた男性は、ふと真面目な顔をして僕に問いかける。

「店員さんは、同性愛に抵抗はありませんか?」
「え、同性愛って、つまりゲイだとかレズビアンだとか……」
「はい」

なぜ突然そんな話になったのかわからない。僕の中の彼にたいする少し複雑な興味を見透かされたのだろうかと思ったがそういうわけでもなさそうだ。
ちなみに僕自身はゲイというわけではないが、学生時代の友人にゲイがいる。今はたしか、仕事で知り合った男性と恋人になり共に暮らしているのだったか。その恋人にも会わせてもらったことがあり、異性同士のカップルとたいして変わりがないなという感想を抱いた記憶がある。
つまり、同性愛にたいして嫌悪や抵抗を感じるということはなかったりする。

「いえ。好きになる性別が違うというだけですし、特別何か思ったりとかはないです」
「そうですか、安心しました」

真剣な顔のまま、目元だけ少しゆるませて、手元を見る。男性はゆったりと目を閉じた。何かを思い返すように、静かに。
「私には恋人がいました。私と同じ、男のです」
語りだしは、そんな言葉だった。



私には恋人がいました。私と同じ、男のです。
私は生まれついての同性愛者というわけではありません。むしろどちらかといえば女性の方が好きで、若い頃はそれなりに遊んだこともありましたね。しかし家がそれなりに金持ちで、あまり悪い噂が立つと風当りが強くなるので、働きだしたころから遊びまわるのは控えるようになりました。
何代も続く会社を経営している家だったので、幼い頃から許嫁といわれるような存在もいました。お前が家を継ぐんだぞと親からのプレッシャーもあって、まあ勉強もがんばったりしたでしょうか。大学も出て家の会社で働いて。
許嫁には数回会ったきりでしたが、将来的にはこいつと結婚して跡継ぎを作り会社を経営するだけの人生なのかと思うと、まだ未婚のうちから顔を合わせるのも苦痛で、出来る限り接触しないようにしたりしましたね。今だったら相手の女性にとっても迷惑でしかない話だと思えますが、そこまで考えられるほど私はまだ大人じゃなかった。自分の不幸を嘆いて、それでも親のコネで働いて、会社じゃ蝶よ花よと扱われて、たまに女性と共に過ごして。本当にガキで、お恥ずかしい限りなんですけど。
私が、今のあなたくらいの年のときですかね。同じ部署に異動してきた男がいました。私より二つほど年上で、とても仕事のできる人でした。しかも人当たりがよくて、顔立ちも、フロアの女性社員を軒並み虜にしてしまうくらいには整っていたんだと思います。私はそのころ、あまり彼の顔をしっかり見たことがなかったのでよくわからないんですが。
私は、その男のことが嫌いでした。というより、妬んでいたんですね。彼は人気があって誰しもに頼られていて、それに比べて私は一部にちやほやされはしても所詮働きはじめて数年のひよっこ、しかもコネ入社で。
何がこんなに違うんだろうと、毎日考えていました。仕事を頑張ればいいのかもしれない。けれど妙なプライドが邪魔して懸命になるのは耐えられない。だからといって次期社長だぞなんて威張り散らすのも違う気がして、毎日毎日もやもやして。そうこうしているうちに彼の姿を見るのも嫌になりました。できるだけ会わずに済むように馬鹿みたいに画策したりしたりもしました。
ですが、あるとき。何かプロジェクトが成功したとかでしたかね。打ち上げで、偶然席が彼と隣同士になってしまったんです。当然僕は移動しようとしたんですけど、せっかく盛り上がっているところに水を差すわけにもいかなくてそのまま飲んだり食べたり話したりしました。
彼は、とてもいい人だった。こちらの答えやすいような質問を振ってくれるし、それにたいする対応も穏やかで気取ったところもない、本当に話しやすい人だったんです。きっと私は彼に対してよくない態度だったんでしょうけど、それも気にせず接してくれました。屈託なく笑う彼を見ていたら変に無視するのも馬鹿馬鹿しくなってしまって、私も気付けば彼の目を見て彼の話を聞いて、一緒に笑うようになっていました。
帰り道に駅へ向かいながら、言われた言葉を今でも思いだせます。俺のこと嫌いでも避けたりするなよ、俺はお前のこと嫌いじゃないし。なんて。子どもみたいな言い分ですけど、同僚も上司も後輩も、親でさえ味方だなんて思えなかった当時の私には心強い言葉だったんでしょうね。そのときには、それまで嫌っていたことも忘れて彼と一緒にいたいと思うようになっていました。
多分、好きになったのは私の方が先ですね。あの人は自分のほうが先だといつも胸を張っていましたけど、確実に私です。嫌いだと思っていたころから気になって仕方がなかったのは、結局好意を持っていたからなんだと今では思います。
私はあの人のことを自分のものにしたいと思いました。あの人はあの人で、私を大切にしたいと言ってくれました。互いに同性愛者ではなかったのですが、私たちはお付き合いを始めることになったんです。



「もうかなり昔のことですね、思いだす度にくすぐったくなるような記憶ばかりだ」

話し続けて喉がかわいたのか、男性は残っていた酒をぐいと飲み干した。それを見越してお替りをつぐ。これは僕からの奢りということにしよう。ありがとうと微笑むのを見つつ、御会計のときに気を付けようと心に決める。
過去のことを話すとき、男性はとても幸福そうな表情をしていた。とっておきの宝物を人に自慢するような表情だ。それが何よりも、男性にとって、その「彼」の存在と「彼」と過ごした時間がとても大切なものであるのだということを如実に表していた。
僕は男性のことが何とはなしに気になっていたので、当人の恋愛話に複雑な心持になりながら、男性が自分のことを話してくれているのだということにかすかな優越感を抱いていた。店員と客でしかない僕ら。たぶん彼にとっては壁に話しているのと変わりないのだろうけれど、それでもだ。
からんと、グラスの中で氷が音を立てる。男性はそれに気づいていないような顔で、窓のほうをじっと見つめている。きっとあの向こうではまだ激しく雨が降っていることだろう。僕たちはまだ、帰れない。

「その人とは、どうなったんですか」

無言の時間に耐えられなくなって質問する。つい何分か前まではこの男性と話さないのが普通だったのに、現金なものだ。
男性は僕を見上げて、唇を歪めた。

「別れました。私が彼を裏切ったんです」



彼と付き合いだして何か月かしたころだったでしょうか。両親が、そろそろ身を固めないかと言いはじめました。私はそのときには二十代も後半に差し掛かっていて、たしかに結婚していてもおかしくなかった。お金もありましたし、相手は親が決めた相手です。もっと早くてもいいくらいでした。
親からしたら、いつまた私がふらふらと遊び始めるか気が気じゃなかったんでしょう。外で他に相手を作って子どもが生まれたり、その人と結婚するなどと言いはじめることを考えたら、早いにこしたことはないですものね。
私は、結婚しないと言いました。今の話じゃなく、一生するつもりはないと。当然です、私には彼がいました。彼以外を愛する予定はそのときありませんでしたし、彼を愛している以上他の誰かと一生を誓うなんてできません。散々遊び歩いたはずなのに彼に対しては妙に真面目で一直線だったんですね、学生のころの友人が当時の私を見たら笑いすぎて顎を外してしまうと思います。
親は、何言っているんだと怒りました。だんだんと焦り始めて、最終的には頼むから結婚してくれと泣き落としにかかりました。結婚しないのならば跡継ぎにすることができない、勘当するとまで言われましたね。
それでも私は動じませんでした。勘当するならすればいいとさえ思っていました。彼には多少面倒をかけてしまうかもしれないけれど、私だって立派な成人男性です。親の決めた道を歩まなくても生きていく術はいくらでもある。そう考えていました。
けど、彼はそうじゃなかった。
あるとき、言われました。俺と別れたほうがお前は幸せなんじゃないか、ですって。思わず笑ってしまいました。彼と出会うまでの私がどれだけ荒み、世の中を馬鹿にして生きてきたのか、彼は知らないんです。会社を継ぐことよりも彼と歩む人生のほうがよっぽど価値があると思っていることを、彼はまったく知らなかったんです。
私は当然、そんなはずがないと言いました。そして、誰からその話を聞いたのかと詰問しました。私は彼に、私の親に言われたことは何一つとして伝えていなかったのです。
彼の口から許嫁の名前が出たときは、一瞬誰のことだか分からなかったですね。本当に滅多に会うことがなかったので。
許嫁は、私のことが好きだったんだそうですよ。是が非でも結婚がしたかったらしいです、なので、私のほうの会社の取引先の娘であることを盾に、私と結婚の約束を取り付けたんだと。親が私をせっついたのも許嫁が急かしたからだということが分かりました。
許嫁は、彼のことも知っていました。どんな手段を使ったんだか、私たちが恋愛関係にあることも正確に知っていて、別れさせようと色々と手を尽くしていたようでした。彼は許嫁が世迷言を並び立てるのを聞きながら、たくさんのことを考えたそうです。
自分たちは共にいていいんだろうか。それがどちらかの不幸に繋がるのならば、関係を断ちきったほうがいいのではないか。
もう、おなかが痛くなるほど笑いました。なんて無駄なことを考えているんだろうって、おかしくておかしくてしかたがなかった。
あなたは私といて不幸なんですか、と聞かれて泣きそうな顔で首を横に振っていたのが楽しかったですね。私もそうですよと言ったときの情けない顔も今でも思い出せます。
私は彼のことが本当に好きだった。彼もそうだった。だから何の不安もなかったんです。
許嫁は私を諦めるつもりはないようでした。なので私たちは、どこか遠くへ逃げようと決めました。私は家から決別する覚悟でした、彼もそうだったんでしょう。どこかでまた仕事を見つけて、二人で生きていくのもいいんじゃないかと、多分あまり深刻ではない話しあいをした気がします。それでも二人とも本気でした。
誰にも見とがめられないように荷物をまとめて、逃げ出した。これまでの人生であのときほど高揚したことはありませんね。未来への期待だとか不安だとかで頭の中がぐちゃぐちゃで、でも隣に彼がいるのならば何も怖くありませんでした。若いですね、本当に、浅はかだったんだと思います。
逃げることを楽しんでいた私は気付いていませんでした。隣を歩く彼がだんだんと疲弊していくことに、自分のことで手一杯だったなどというのは、言い訳にもなりません。私は、気付くことができなかった。自分が選んだ唯一の人の変化に。



がたんと、また窓が大きな音を立てた。話に真剣に耳を傾けていたせいで肩が揺れるほど驚いてしまった。男性は苦笑して、少し様子を見てきますと席を立つ。僕は悄然とカウンターに手を着いて立ち尽くしていた。
逃避行、というやつだ。家の都合で望まぬ結婚をさせられそうになり、恋人と手を取り合って逃げ出す、幸福でせつない逃避行。若い女性が好みそうな展開だ。あまりに物語のようだけれど、きっと嘘ではないのだろう。言葉を紡いでいく男性は、夢物語を語っているようには見えなかった。
人生すべて捧げていいと思えるほどの相手に出会った男性。そしてそれについていった「彼」。けれど男性の思い出話は、めでたしめでたしでは終わらないのではないだろうか。
僕は予感していた。こういった展開の物語はすべからく、悲恋で終わるのだ。

「ああ、まだまだ止みそうにありませんね」

男性の言葉に視線を向けると、カーテンを開き窓の外を眺めている様子が目にはいった。ここからでは分からないが、どうやらあの真っ暗な中では雨がざあざあと猛威を振るっているらしい。閉店までまだ時間はある。それまでにせめてもう少しでも弱まってくれないものだろうか。
男性はしばらく外を見ていて、突然こちらを振り返った。顔には笑み。うっすらと皺の見える口元は、笑うと少しだけ幼さを取り戻すようだ。
僕はその、穏やかな表情に惑わされることのないように、逆に口元を引き締めた。この人はいつも、何かを隠しているようだった。それはたぶん今も。何か悲しい、苦しい出来事を腹の奥に抱え込んで酒で飲み下していたのだ。今は、そう思う。

「二人で逃げ出して、そのあとどうなったんですか」

挑むような僕の問いに、男性は目を細める。

「この街にね、辿り着きました。二人で家を借りて少しの間一緒に暮らしたんです。あまり給料はよくありませんでしたが必死に働いて、ささやかながら平穏な日々を過ごしました。私は毎日幸福だった。彼と一緒にいられるんです、何に気兼ねすることなく隣にいられるんです。こんな幸せあるでしょうか」

声が弾んで、本当に嬉しそうに語るものだから、男性のこの街での生活をぼんやりと思った。何もかも捨てて一緒になった人と共に暮らす。それはきっと、僕が思う以上に価値のあることなのだろう。
けれど、言葉に少し違和感を覚えずにいられなかった。「少しの間」とはどういうことだろう。男性はいつも一人きりでここに通っていたけれど、もうその「彼」とは別れてしまったのだろうか。だとしたら、少女の夢見る物語にはやはりなりきれなかったということだ。
どう言葉をかけるべきかと悩んでいる僕に気付くことなく、男性はまた窓の向こうへ視線を向けた。

「先程も言いましたね、私は彼の変化に気付くことができなかった。彼は、私が汗水たらして働く姿に思うところがあったのだそうです。本当ならば大きな椅子に座ってふんぞり返っていればよかったはずの私が、妻子に囲まれ社長として生きていくはずだった私が、こんな田舎で土木工事をしている。それが耐えられないんだと。けれど今更手を離すこともできないと」

暗い窓にうっすらと映る男性の唇が静かに開いて、

「一緒に死のう、と、言われました」

と、そんな言葉を形作った。

「海に飛び込んで、深く深く沈んで、二人で永遠に眠り続けるんだなんて笑っていました。本当に嬉しそうに。私が彼を追い詰めてしまったことは分かりましたが、そのときにはもうどうしようもなかった。彼は、おかしくなってしまっていたのだと思います」

呆然と、広くも大きくもない背中を眺める。男性の声は淡々と、いっそ笑いさえ含んで続けられる。僕は何か言う言葉も思いつかず、ただ黙り込んで、ぷちんと消えてしまいそうな男性を見つめる。

「私たちは波打ち際に立って、キスの一つくらい交わしたんだったと思います。何しろ私は死にたくない一心で、もうあまり覚えていない。彼の蕩けそうに熱い目だけは覚えていますが、それだけ。気付いたら砂浜に一人で横たわっていて、隣には誰もおらず、彼は、いなくなってしまった」

捜索願は出されましたが、今では死亡扱いになっています。
小さくなった声に重なるように、またも窓が悲鳴を上げる。ベージュのカーテンはもはや外界と屋内の間に立つことはしてくれず、男性はただ、窓の向こうを見ている。
数分、いや、もしかしたら数十秒程度だったかもしれない。無言の時間があまりに長く感じられた。僕は男性を見ていた。たまに電灯がちかりとするのに苛立ちを感じながら、それでもただじっと見つめていた。ほかに何をすることも出来なかった。
このまま世界が終わってしまうのではないかという不安にかられながら、僕は口をつぐんでいた。店の隅で黙々と酒を飲んでいた男性の、闇に触れた恐ろしさと高揚に喉がいっぱいになっていた。

「私は弱い人間なんです。あの人と共に死ぬこともできず、生き残ってからも後を追おうとすらしない。なのに彼のいない世界で生きていくことも恐ろしくて、酒を飲んで誤魔化し誤魔化し日々をやり過ごしている。現実からも彼からも逃げているんです」

彼がいなくなってから、許嫁からは一切連絡はありませんが、両親には一度だけ会いました。こんな問題を起こすなら死んでくれたほうがよかったと言われました。私もそう思います。私はあのとき、彼から逃げるべきじゃなかった。
ぶつぶつと独り言のように掻き消えそうな音が聞こえる。僕はたまらなくなってカウンターから飛び出した。
立ち尽くす彼の背中はやはりずっと小さかった。ぎゅうと抱き込んでしまえばそのまま潰してしまえそうだと思った。それはたぶん、僕の男性へのイメージがそう思わせるのだろう。
男性は、ぷつりと消えてしまいそうだった。今にも空気に溶けて、この世からいなくなってしまいそうだった。僕はそれをとめたかったのだ。うまく言葉にはできないけれど、単なる興味なのかもしれないけれど、僕はこの男性のことが気になって気になってしかたがなかったのだ。消えてもらっては困る。
息せき切って駆け寄って、覆いかぶさった。一瞬びくりと体を固くしたけれど、男性は大人しく僕に囲われている。腕に力を込めてもこの人は潰れてしまわない。消えてしまわない。この人は生きていた。
男性と「彼」のことを考える。一緒に死ななければと思うほどの恋愛とはなんだろう。僕にはわからない。けれどそれは、もうずっとずっと昔のことだろう? 「彼」だって許しているんじゃないのか? 愛した人に幸せに生きてほしいと思っているんじゃないのか?
憶測を、当事者ではない僕には口にすることができない。それでも黙っていたら後悔しそうで、頭に浮かんだ文章を叫んだ。

「死なないでください! 駄目です、嫌です、僕、あなたに生きていてほしいです!」

たかだか通っている店の店員風情が何を言っているのだろう。たった数十分身の上話を聞いただけで同情して、命の心配までしてやがる。自分で自分がくだらなくて仕様もなくておかしい。
でも、男性は、こくりと頷いたのだ。

「ありがとう」

やはり消え入りそうな声だったけれどそれでよかった。僕は腕の中の柔らかな体温を逃がしてしまわないように必死に抱きしめる。臆病な野良猫を思い描いていた。怪我をしているくせに、びくびくとこちらを窺うばかりで手当をしようと手を挙げればすぐに逃げ出そうとする。けれどこの人は怯えながらも、飛び掛かった僕から逃げ出していないのだ。だから、大丈夫。包帯を巻いたなら大丈夫だ。
窓がまだ悲鳴を上げている。嵐という魔物が今にも襲い掛かってきそうだったけれど、黒に塗りつぶされた窓は恐ろしい外の世界から僕たちを隠してくれている。
けれど、ふと胸が冷えたのは、男性が暗い暗い窓を見つめているのが写っていたからだろう。ただひたすらにまっすぐに。瞳が淀んで見えたのは、きっと気のせいだけれど。



あの激しい嵐の夜から二週間ほどが過ぎた。
台風一過とでもいうのか、翌日にはからっと晴れたが、なかなかに深い傷跡を残していったらしい。いくらかの家が修理を必要とするほどだったのだとか。僕の住む家には被害がなかったので、あまり実感はわかないけれど。
男性はあのあと、特に言葉も交わさずに帰っていった。雨はまだひどく降っていたが、もう少しいてもいいという僕の提案を閉店時間を過ぎているからと言って断った。扉を開いた瞬間振り込んできた雨粒と、雨のシャワーの中を駆けていく後ろ姿が、その晩はずっと頭から消えなかった。
店長は少ししてからようやく帰ってきた。いたわりの言葉を聞いたか聞いていないかくらいで帰る支度をはじめたのでたいした会話はしていない。送っていこうかと言われたが丁重にお断りした。なんとなく一人で雨の中帰りたい気持ちだったのだ、僕も大概センチメンタリストである。
まあそのせいで風邪をひいて三日ほど店に顔を出せなかったのは頭が悪いとしか言いようがない。それほど忙しくない店とはいえ、僕がいなくては店長が一人で切り盛りすることになるのだ。僕が来るまではずっと一人だったという話だったけれど、それにしたって大変だろう。申し訳ないと思いながら、ここ何日かはそれまで以上に真剣に仕事をしている。

「はあ、終わりましたね」
「ご苦労さん。珍しく夜のお客さんが三人も来たな」
「二人もって……。僕はこの店の存続が不安で不安で仕方ありませんよ」
「これまで十年以上続いてるんだ、お前さんに心配されなくともなんとかなるよ。なんせ俺の飯は最高にうまいからな」
「だったら昼だけやってればいいじゃないですか」

憎まれ口を叩きながら閉店準備を進める。店長の言うとおり今日は夜の客がいつもより多かった。三人で多いというのもどうかと思うが、事実なのでしかたがない。けれどその三人の中に、例の男性は含まれていない。
思わず溜め息を吐く。
この二週間、あの男性に会っていない。これまでは三日と置かずに訪れていたというのに、嵐の夜以降すっぱり現れなくなった。彼の特等席は夜の間中空席で、それを見る度に僕はなんとも苦い気持ちを味わう。
僕が分かったような口を聞くから、来るのが気まずくなってしまったんだろうか。それとも、もう酒を飲んで気を紛らわす必要がなくなったのかもしれない。もしくは、故郷に帰ったとか。
どちらにしろ、連絡先も知らない僕では自ら男性に会いに行くことはできない。ただ今日は来ないか、今日は来ないかと尻尾を振って待つのみだ。
だって彼は、ありがとうと言ったのだ。きっとまた、会える。

「今日も来なかったですね」

男性のことが頭から離れなくてぼそりと呟く。洗い物をしていた店長は首を傾げたが、僕が視線で示すと合点がいったらしい。あーと呻いて、目を逸らす。
何か知っているのだろうか。どこか躊躇するような雰囲気の店長に、肌がざわりと粟立つ。
唇が音を作りだすのを見ていた。耳を塞ぐこともできずに、ただ茫然と。

「いつもそこに座ってた男性な、自殺、したらしい」

言葉を忘れてしまったのだと思った。何か大きな塊を飲み込んだかのように呼吸さえ満足にできず、うちげられた魚のように浅く息を吐き、吸う。目を見開いて、店長を窺う。嘘を吐いているようなようすでは、一切、ない。

「一週間ちょっと前か? お前さんが寝込んでいるときに警察が来てな、近くで投身自殺があったんだが何か知らないかってよ。あの人、死んだんだと」

店長は気まずげにしてはいるが、たいして悲しんでいるというわけではないように見えた。一週間も前ならそうかもしれない。それに、店長にとってあの男性はただの客だったのだ。縁起が悪いと思いこそすれ、泣いて別れを惜しむようなことはないだろう。
僕にとってはそうではない。男性は僕の中で、今、自殺をした。そして僕にとっての男性は、たんなる客ではなかった。何だと言われたら言葉にできないけれど、ちょっと特別な、頭の片隅にいつだってある存在だったんだ。
その人が、死んだ。いなくなった。
どうして?
今の僕は最悪な顔をしていると思う。顔も青くなっているだろうし、今にも吐きそうに見えるんじゃないだろうか。店長はいつの間に洗い場から出てきたのか、心配そうな表情で僕の顔をのぞき込んできている。

「もしかしてお前さん、あの人と親しかったか?」

返事をすることはできない。親しいか親しくないかと問われたら、別段親しくはなかった。僕はあの人の名前も知らない。けど、格別な人だった。僕にとって。
唇を震わせることも出来ず、ただ目を合わせるだけの僕に、店長は何か理解したらしい。ごそごそとエプロンを探ると、すすけた封筒を取り出した。

「わかった。これ、きっとお前さん宛てだ。読むといい」

力の入らない手で受け取ってひっくりかえしてみる。見覚えのない筆跡は、繊細で美しい。綴られるのは、聞いたことも見たこともない名前。どこか優美なその名前を、僕は、夢見るような心地で口の中で転がした。吐きそうだった。
時間をたっぷりかけながら封筒を開き便箋を取り出す。便箋も封筒同様どこか薄汚れているようだ。いつか見た傷だらけの指を思い出した。
罫線の上踊る、やはり繊細な文字。その内容は、理解しがたいものだったけれど。

『突然で驚かせたかと思います、心優しい店員さんへ。あなたのおかげでようやく決心がつきました。彼がいないのにあなたに救われて生きるなど冒涜です。本当にありがとう』

何が書いてあるのだろう。わからない。理解できない。わかるのは、この手紙が僕宛てのものであるということと、もしかしたら、ありえないけれどもしかしたら、あの男性が書いたものであるのかもしれないということのみだ。

「警察が来る前日な、あの人が店に来たんだよ。いつもどおり酒頼んで、一人でテーブル睨み付けて。でも帰り際に、これ渡してったんだ。私のことを気にかけてくれた人に渡してくださいって言って。それ、お前さんのことだろう?」

僕は何も言えず、一度小さく首を振る。

「何か、聞いたんだな」

断定口調だった。つい身体を震わせると、店長は大きな掌で僕の背中をさすりながら、溜め息を吐いた。上手にできない呼吸が徐々におさまっていく。
僕は口元をおさえながら店長を見上げた。太い眉をぐっと下げてこちらを見る店長は、何か知っている。僕の知っていることと同じか、もしくはそれ以外のこと。僕の知らないあの男性のことを。
僕の促すような視線に一瞬眉をひそめたが、諦めたらしい。店長が気遣わしげに口を開く。

「あの人が、恋人が死んだっつって飛び込んできたの、うちだったんだよ。もう十年近く前のことか。血の気が引いた白い顔で、びしょびしょになりながら扉蹴りあけて、助けてくださいなんて叫んでな。で、警察と救急が辿り着くまであたたかい飲み物を出してやった。そのときに事情も少し聞いたんだが……」

やはり店長も知っていたのだ。あの男性がどのようにしてこの街にやってきたのか。その日に二人の間でどんな会話があったのかはわかりようがないが、そのうえで、店長は男性がこの店に通うことを認めていたということで、何かしら心を動かされるようなことがあったのだろうと思う。
店長の瞳には、ぼんやりと幽愁のような光が宿っていた。この人自身十年もつきあいのあった客が亡くなって多少は思うところがあったのかもしれない。この二週間決して僕には見せなかったけれど、どこか見えないところで男性の死を悼んでいたのだろう。
店長は僕から目を逸らし、窓のほうへ視線をやった。ベージュのカーテンの隙間から、目を奪われるような真っ黒が覗いている。

「あの人がこの店に助けを求めに来たのも、あんな嵐の夜だったな」

ひとりごちる声を、祈るような気持ちで聞いていた。じっと、物の輪郭もわからないほどの暗闇を見つめていた背中を思いだした。
気付かずにいられるはずがない。僕の言葉は男性に届きやしなかった。「ありがとう」というのは背中を押してくれてありがとうという意味で、飛び込んだその先に待っていたのは死で、もしかしたら、遠い昔に失った恋人で。ようやく死んで償うことができるといった解放感を、あのときのあの人は抱いていたということで。
大丈夫だと思ったのは、僕の勘違いでしかなかった。あの人は生きたくなどなかった。死ぬためにずっと、この街にいたのに。
包帯を巻いたつもりで致命傷を与えたのは僕。稚拙な言葉でストッパーを外してしまったのは、僕。
あの日、男性は僕のことなどこれっぽっちも見ていなかったのだ。男性にたいする僕のひそやかな好意だとか、失いたくないという気持ちはすべてすべて無視をした。ただ、恋人のことのみを考えて、どうしたら「彼」のもとへ行けるのか考えて。窓の向こうに写ったのは、在りし日の恋人の幻だった。
なら、僕は、誰を怨めばいいのだろう?
痛ましいなと、店長が呟いた。
痛々しいのは、誰だったのだろう?
窓はもう音を立てない。魔物は獲物を手にしてご満悦で去っていった。カーテンは防波堤にならなかった、男性が開いた瞬間から、魔法はもうとけていたのだ。
嵐は過ぎた。僕の目には映らない幻となって。





END.

2014/05/27


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