音の同居人






駅から徒歩五分。そんな文句にひかれて住み始めたアパートには幽霊が出る。他の部屋はべらぼうに高かったくせにこの部屋だけ異様に安いのはそういうことか。うまい話には裏があると青ざめたときにはすでに契約してしまっていて、少なくとも一年は住んでもらわないと困りますなんて大家さんは聞く耳を持たなかった。
べつにホラーの類が嫌いなわけではない。映画だって普通に見るしホラーゲームはむしろ好きな方だ。おばけ屋敷にもトラウマがあるわけじゃない。ただ、それらは言ってしまえばすべてフィクションなわけだ。本物の幽霊が目の前にいるのとはわけが違う。
いやしかし、目の前にというと語弊があるかもしれない。実際には、目に見えちゃいないのだから。
はじめは、廊下を歩く音だった。ぺたぺたと、いかにも裸足のような足音。笑えそうなくらい間抜けな音だったが、それは足音の主が誰かわかっていたときにはじめてできることだ。六畳一間の部屋。扉の向こうにはキッチンがあるだけだが、その廊下を、誰かが歩いている。もちろん誰かが遊びに来ているわけではない。正真正銘、俺一人。
次に、扉の開く音。たぶんあれはトイレの扉だったんだと思う。そのときも俺一人だったのだけれど、間違いなくきいっと開いて、ばたんと扉がしまった。ご丁寧にトイレットペーパーを巻き取る音までしていたが、幽霊も用を足すのだろうか?
他にも、水の流れる音、靴をそろえる音、食器を片づける音など、まるで誰かが一緒に生活しているように音が聞こえてくる。姿は見えない誰か。ものに触れることはできるようで、俺からは見えないところで物を動かしたり遊んでいるようである。いつだって音だけがそこに存在していて、俺はびくびくとしながらも一年だけだからと自分に言い聞かせてなんとか生活している。
とはいえ、自分の家が恐怖の対象であるのは案外と精神力を削ってくるものらしい。俺は連日同僚と飲み、出来得る限り家に帰ることのない毎日を過ごすようになっていった。
今日だってそうだ。明日も仕事だからと渋る友人に追いすがって三件目の店を訪れたところで記憶が途切れている。頭がガンガンと痛い。口の中が酸っぱいのでどこかで吐いたのだろう。視界がぐらぐら揺れるからだけではなく何も見えないのは、部屋の中が真っ暗だからか。呻きながら周囲に指を這わせれば、ベッドの上であることが分かる。朝剥いで放り出したままの布団が引っ掛かって、身体に巻きつける。
きっと友人が運んでくれたんだろう。幽霊怖さに何度も泊めているから、彼は俺の部屋を知っている。無茶な飲みに誘っているというのに律儀でいいやつだ。涙が出る。
今、何時だろう。携帯を見るのですら億劫だ。腕時計を除いても暗くて何もわからない。明日も仕事。なのに体中が重たくてしにそう。もういっそ、しにたい。
カタン。
吐き気と戦いながら泣くのを耐えていると、かすかな音が耳に忍び込んできた。まただ。また、幽霊だ。癖のように息をひそめて、気配を探る。どうせ姿は見えないのだから無意味なことなのだけれど。
いったい何をしているんだか、俺は幽霊と同居するつもりはないのに、奴は当然のように俺の部屋で生活をしているようだ。音だけとはいえ住んでいるのなら、いっそ家賃を半額出してほしい。そんな文句も恐怖の前に口に出せるはずもなく、ごくりとつばを飲み込む。
数秒待つが、それ以上物音の立つ気配はしない。どこかへ消えてしまったのだろう、人騒がせな幽霊だ。いやいや人騒がせじゃない幽霊など存在するのかと自分の考えに疑問を抱きつつ、恐る恐る電気の紐へ手を伸ばす。
ぱちり。水面から上がった直後のように世界が開ける。眩しくて何も見えやしないし頭痛も増すようだけれど、人間に一歩近づけたような気がする。瞬きを繰り返し明かりに目をならして何秒か。ようやく理解した状況に、俺は思わずぽかんと口を開いてしまった。さぞ間抜けな顔をしているだろうが、生きているものは誰も見ていやしないのだから関係ない。
食事用の小さい机の上に、コップが一つ。百均のそれは俺の愛用品だ。中にはどうやら水がなみなみと注がれているようで、少し零れている。友人が置いていったのか? それにしてはついさっき運ばれたようにじっとりと汗をかいている。間抜け面のまま携帯を見れば、友人からの「家に放り込んでおいた。あんま飲みすぎんなよ」というメールは二時間前に来たらしい。つまり? これは?

「まさか、毒が入ってる。なんて、ことは……」

ないと思いたい。今まで無害だった幽霊野郎が今更牙をむくなんてことはないだろう。そもそもこの部屋に毒なんてあるわけがない。どこかから運んできたなら別だが、幽霊って場所の移動できるんだったっけ?
俺のことを心配して、水を運んできてくれた。そう考えるのが妥当、だとは、思う。いやけど、幽霊だぞ? なんか未練があって残っているんだろう? 俺を道連れにしてやろうとか、考えてないと言い切れるか? いやいやしかししかし、これまで何もなかったんだし……。

「ああああめんどくさい!」

ええいままよとコップをわしづかみ、口に水を流し込む。冷たくて気持ちいい、ただの水だ。当然苦しくなったり血を吐くなんてこともなく、本当に、ただの水。水道水。
のど元までせりあがってきていた夕飯が大人しく腹に戻っていく。頭も多少冴えて、頭痛は相変わらずだけれどなんとなく紛れたように思える。思ったより酔っていたんだな。そう理解すると同時に、今までの自分が急に情けなく思えてきた。
幽霊だって、もとは生きてたんだろう。俺みたいに飲みに行ったり、仕事したり友人と愚痴ったり、ミスして落ち込んだり宝くじが当たってテンション上がったりしてたんだろう。どうして死んだのかここにいるのかは分からないが、もしかして、すごくいい奴だったのかもしれない。

「あんた、俺のこと心配してくれてんの……?」

返事はない。声も出ないのかと、なぜだか残念に思っている自分がいる。現金な奴め。ついさっきまでビビッていたくせに、ちょっと優しくされるとすぐにつけあがる。けどそんなもんだろう。あと何か月もこいつと一緒に暮らしていかなきゃいけないんだ、怖がっているよりよほど建設的ってもんである。
なんだか急に眠気に襲われて、つけたばかりの電気を消した。出勤までまだまだ時間はある。もう一眠りしたって誰も文句言うまい。

「おやすみ」

応えはないと知りつつ声に出してみた。たぶん聞こえてるんだろう。そして、今俺のすぐそばにいるような気がする。今までだってそうだったんじゃないだろうか。怯える俺をすこしさみしそうに見ていたりなんか、したんじゃないか。妄想? 好きに言うがいいさ、ポジティブさは罪に問われないんだから。
明日は飲みに行かないことにしよう。カーテンの閉められる音に安堵の溜め息を吐きながら、俺は心中でひとりごちた。




END.

2014/05/27


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