電車が彼を轢く頃に



「篠田先生」

卒業式の日だった。涙と共に言葉を交わす生徒たちを尻目に、せわしなく翻される白衣へ、声がかけられた。振り返るのはこの部屋の主である科学教師。黒縁の眼鏡の向こうから色素の薄い瞳が覗く。無表情。だけれどその瞳だけは、いつも雄弁にものを語る。

「引っ越しの準備ですか」
「ああ」

興味を失ったように視線を逸らされ、再度白がこちらを向く。ガラス特有の軽やかな音が響く。
しばらく無言で大きな鞄にグラスを詰めていた篠田だが、そのうちに嫌そうに溜め息を吐いて肩を落とした。首筋に変に視線を感じる。何も気付かないふりをしたかった。もう手遅れだった。

「何の用だ、沢口」
「用がなければ来てはなりませんか」
「ならないな」
「どうして」
「外でお前のファンが待っているんだろうが」

薄く開かれた窓の向こうでは、卒業生同士や、卒業生と在校生が肩を並べて写真を撮っている。今日は一つの門出の日なのだ。この日を大切な人たちとの思い出に残したいと、彼らは一様に笑顔で被写体となる。
本日の主役たる卒業生、科学準備室の常連である沢口は、一緒に写ってくれと引っ張り凧になる類の男だ。整った顔立ちとクールな性格のせいで高嶺の花と認識されてしまっている彼には、こんなときくらいでないとアタックもできないのだろう。篠田は先程終わった卒業式を思い出す。多くの女子生徒の視線は、この青年が独占していた。
沢口を呼ぶかわいらしい声が聞こえる。大学は推薦ですぐに決めてしまった美しい青年は、聞こえないふりで微笑んだ。

「僕は写真は好かないんです。初めからそう言っているのに、彼らもしつこい」
「そんな性格でよくこれまで生きてこられたものだな」
「先生もたいがい協調性のない性格でしょうに、心外極まりありませんね」
「俺のことはどうでもいい。さっさと戻れ」
「ファンのことなぞ知りません。僕が戻らねばならない理由もないのですから、ここにいてもいいでしょう」
「理由ならあるとも。ここにいられては片付けの邪魔だ」

そうしっしと手を振り、沢口に視線を向けないままに軽く背筋を伸ばす。教科書や参考書はもう鞄に詰め終えている。ここに置かれていた篠田の私物は先程のグラスで最後だ。教材も運び出してあるので、篠田が自室のように扱っていた準備室はかなり殺風景になっていた。
がらんどうな空間に、黒ずんだ薄汚い壁。まるで牢獄のようだ。教師という、ある種の枷を伴った職業と生きている男は、カゴの鳥かと嘲笑う。
床を蹴る音がして、すぐ背後に沢口が立ったのが分かった。戻る気はないようだ。この頑固な青年が大人しく篠田の言うことを聞いたことなど、この三年間一度もなかった。

「この部屋とも、お別れというわけですか」
「ああ」

築七十年という歴史あるこの校舎は、何度か増築こそ繰り返したが改築はなされたことがなかった。数え切れないほどの生徒を見守ってきた校舎は、そろそろ限界だった。コンクリートの壁にはひびが入り出し、錆びも回ってきている。
いつか何かあって崩れてしまうのではないかとは何年か前から言われていた。地震や台風や、崩壊の可能性はいくらでもある。そんなわけで元から改築の話はあったのだがなかなか実現できず、今年。ようやく金の工面も終わったらしく、校舎の建て替え、及び旧校舎の取り壊しが決行されることとなったのだ。
まずは特別棟が取り壊される。建築作業の間、理科系の教室や音楽室、美術室といった特別棟内の教室は、校庭にそびえ立つ仮校舎に移されることが決まっている。仮校舎はすでに完成しているが、中は空。これからまずこの科学準備室の備品が移動させられ、初めて校舎として起動し始めるのだ。
科学準備室は篠田先生の根城。ここ数年のうちに暗黙の了解となった、この学校での常識である。他の科学科教師は科学準備室よりも科学室に近い生物準備室に席をもらっているというのに、三年前に赴任してきた篠田だけは何故か科学準備室で過ごすことになっている。棚と机を置いたらすぐにいっぱいになってしまうような小さな部屋だ。
初めの頃は他の教師からハブにされているのではと噂が立ったが、そんなことはありえないというのも周知の事実である。篠田は無表情で冷たい印象を受けるが、その実まっすぐに優しくて面倒見がいい。彼は教師からも生徒からも好かれる人間だった。彼が科学準備室にいるのは単に生物準備室が埋まっていたからか、あるいは騒がしいところが嫌いな彼の我が儘故なのだろう。

「見納め、ですね」
「それは何を指しての話だ」
「両方ですとも。ねぇ、本当にもう行ってしまうというのですか。少しくらい遅らさせても」
「決定事項だ、お前の都合で意見なぞするんじゃあない」

大学時代に世話になった恩師の元へ行く。もう長く悩んだ上で決めたことだ。それでも篠田としては、せめて終了式の日までは教師を続けるつもりだった。そんなことどうでもいいとばかりに、今はイタリアにいるという恩師は、先月唐突に電話をかけてきた。お前もこちらへ来いと。篠田に断る気はさらさらなかった。例え彼が提示してきた引っ越しの日付が、卒業式の翌日であっても。
今日の内に科学準備室は空になる。明日には篠田は日本にすらいない。
白衣の肩に羽のような感触が落ちる。沢口は、まるで傷付きやすい宝石でも扱うように篠田に触れる。なぞるように指を、空気を間に挟んで滑らせていく。篠田は何も言わなかった。もう慣れたものだ。それも今日まで。

「沢口」

細い指が、布越しに篠田に触れる。

「はい」

従順な生徒の皮を被り、沢口が返事をする。柔和な声音からは何も読み取れない。篠田は振り返る気など髪の先ほども持ち合わせておらず、もはや生徒でなくなった男の表情は分からなかった。

「今日、校長が語られていた話を覚えているか」
「人生というレールがどうとかというやつですか」
「そうだ。俺とお前のレールは、この三年間偶然にも重なっていた。だがそれも今日までだ。俺達は別の方向を目指して生きていくことになるだろう。出会うまでがそうであったように」

沢口の好意に篠田は気付いていた。時折向けられる劣情の含まれた視線や、嫉妬の混ざった冷たい視線。沢口は篠田を好いている。けれどそれは、篠田にとって興味の引かれないことだった。
所詮子供の戯れ事だ。今日好きと言った唇で明日には他の誰かに口づけ、定まらない、深さの足りない、物持ちしない愛情を簡単に捧げられるのが子供だと、篠田は知っていた。
沢口は篠田を好いている。愛している。それがどうしたというのだろう。

「俺はいなくなる。この部屋も壊される。お前は大学生だ。なあ、沢口。お前の信じる愛とはなんだ」
「愛、ですか」
「ああ。何もない上、俺の生徒でもなくなったお前は、それでも俺を思い続けられるか。もう重ならないレールの上で」

篠田は目でものを語る。その淡い色の瞳が告げるのは、単に、明日にはもう自分とは異なった場所にいるだろうものへの、無慈悲な別れ。背中を向けたままの沢口には伝わっていないかもしれなかった。しかし聡明な生徒は理解しているのだろうと篠田は推測する。
沢口の指は無言で白衣を、はてはその奥に潜む篠田の肌を撫で付け続ける。その行動が何を示すのかは、分からなかったし、分かりたいとも特に思わなかった。そんな薄情な男を沢口は求めているらしかった。
沢口は非情で冷酷で現実的で、欲求に忠実な青年だ。簡単に逃がしてくれはしまいと、篠田は鞄のマジックテープを合わせる。

「啓吾さん」

きた。
篠田の溜め息が部屋を駆ける。沢口の魔法の呪文だ。卒業後この名前で呼べば、彼ら二人は対等となる。教師と生徒ではない。ただの二人の男、いや、向かい合った二人の人間となる。
目だけで振り返った先で、沢口は笑っていた。穏やかなくせ酷薄そうな、ある種野獣のような笑みだ。きっとこの先罠が待っている。ひくりと眉が揺らぐ。

「思い出も間柄も関係ありません。僕は何も持たぬただの沢口和志として貴方に告げましょう。僕は、」

続きは篠田の耳に入らなかった。一際大きく、沢口を呼ぶ甲高い声が室内を満たしたせいだった。麗しい青年は忌ま忌ましげに眉を寄せ、次いで唇をひん曲げる。それを篠田は無感動に眺めていた。
濃紺のブレザーが翻る。掻き消された言葉を再度言葉にするつもりはないらしい。背中を向けたまま不意に立ち止まり、悠々と告げられたのは、先程発せられるだろうと篠田が予測していたものとは異なっていた。

「僕等のレールは再度重なり合うこととなりましょう、啓吾さん。必ずね」

何の自信があってそうも不穏なことを言うのか。背中を向けた沢口に、篠田の訝しむ視線は通じていないのだろう。それでも彼は愉快げに笑って、いかにも颯爽と科学準備室から退室する。
篠田は幾度目かの溜め息を吐き捨て、荷物を一カ所にまとめた。こうして見るとすごい量だ。この部屋に置いてあるのは学校の教材ばかりだから持ち帰るものなどたいしたことはないと思っていたが、それは勘違いだった。自分で思うよりずっと、ここは篠田のもので埋め尽くされていたらしい。
篠田は格好よく出て行った元教え子を思い返す。荷物の多さに気付いていたのかいないのか、彼は篠田の手伝いなど一切合切せずにいなくなった。
所詮好意など押し付けがましいものだ。

「餓鬼が」

大きな鞄を肩にかけ、段ボールを抱え上げて篠田は足を進める。コーヒーの香りのしなくなった教室は無機質だ。薄汚れた壁を見て思う。もうここには帰って来まい。いや、帰って来ることは不可能なのだ。何もなくなる。篠田のいた形跡と沢口のいた形跡。
いっそ、崩れる校舎と共に、あの青年の恋心も崩壊してしまえばいい。出来得る限り早く。
心中で吐き出して扉を閉じる。子供の恋に付き合うおおらかな教師の時間は終わった。篠田こそ、ただの一人の大人になった。今度こそ何にも縛られない。
無表情を保つ中で、瞳だけが先の青年より酷薄に光っていた。





END.


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