天女
灯火野

 (あんなもので、私を呼んだつもりだったのかな)
 ルリは飛行機の小さな窓に額をつけ、青空の中をうねり舞う白雲に氷上の自分を重ねる。名前にちなんだ瑠璃色の衣装。16歳で掴んだ初舞台を、自分色に染めてやるという意思の表れだった。
 到着まではまだ時間がかかりそうだ。ルリは目を閉じて回想に耽った。
 スケートが好きだと気付いたと確信できるあの日の記憶に潜り込む。



 ルリは共働きの両親の元に生まれた一人っ子だった。帰りの会が終わるとクラスの子達は皆グラウンドでサッカーとか、体育館でドッジボールとか、仲良しグループで誰かの家に集まってゲームとか、それぞれの過ごし方を探す。
「ルリちゃん、今日もスケート?」
「うん、そうだよ」
「頑張ってね、バイバイ!」
「またね!」
 クラスのお友達はルリのお団子を手のひらでポフポフと触ってから手を振った。ルリの髪は細くて色素が薄かったので、しっかり集めて後頭部でまとめようとすると地肌が透けて見える。しかしアイスリンクでの転倒は危険なので、後ろ頭を守るためにと母が毎朝髪を梳かしてお団子を作ってくれる。
 誰と何かを約束するわけでもなくルリは学校を後にして歩く。向かうのは地元のスケートリンクだ。普段は体育館として経営されているが、冬場は氷を貼ってアイスリンクとして機能する。幼稚園児から大人まで幅広い年齢層が集うリンクだが、曜日や時間帯によって利用できる年齢が決まっている。小さい子供と大人が一緒に滑っていると、ぶつかった時に危ないからだと教わった。ルリは小学3年生が利用できる時間帯を全て使って、両親の帰宅を待つ時間のほとんどをここで過ごした。
 リンクへの扉が開くと、まず一番に冷気がルリの頬を撫でた。カシュカシュと氷を切る音が耳に心地いい。
 人の流れは基本的に左回りに流れる。ルリもその中に混じって、伸びやかに滑り始めた。華奢な腕で回転を受け止め、重心を操って前に後ろに移動する。体が風になったみたい――ルリはいつもそう思う。氷はきっと空に浮かぶ雲で、私はその上で自由に羽ばたいているのだという空想にふけって滑るのがルリの常であった。
 視界の先で人々の流れを滞らせるものが転がっていた。ジャンプの練習を一旦中断して、ルリは氷の上で屈む少年の元へと近づく。
「だいじょうぶ? はい、メガネ」
「ごめんね、ありがとう」
 割れなくて良かった、と少年はメガネをかけ直す。長いまつ毛が綺麗に揃った瞳がちんまりと眼鏡の奥に隠れた。
「うん、どういたしまして!」
 しばらく滑っていると、リンクサイドのベンチに先ほどの少年がいることに気づいた。自分の方を見ていることに気づいたルリは、少年に向かって小さく手を振る。少年ははにかんで手を振り返してくれた。氷の張ったエリアを抜け、少年の方へと駆け寄る。
「お目目ちっちゃくなってもったいないね。かっこいいのに」
 再び眼鏡の奥の小さな瞳と目が合った時、ルリは思ったことをそのままに口にした。
「ああ……僕は、近眼だから。それに、かっこいいなんて、言われたことないよ」
「おべんきょうがすきなの? メガネする子って、頭いいんでしょ」
「勉強は嫌いだな。僕は蝶が好きだ」
「ちょうちょ?」
 食いついた少女の様子に、隠しきれない喜びが少年を饒舌にさせた。
「図書館に行って図鑑を見たり、育て方の本をたくさん読むんだ。この辺にしかいない蝶、日本にしかいない蝶、日本にはいない蝶、地球にはたくさんの蝶がいる。僕の家にもいるよ。今は小さな卵と黒い幼虫がたくさんいるけど、それが青虫になって蛹になって蝶になるんだよ。どれもみんな、違う種類の蝶なんだ」
 分厚い眼鏡の奥の小さな瞳が、一瞬だけ自慢げに笑ったのが見えた。夏休みの自由研究でカブトムシの標本を作ってくる男子を思い出す。学校の廊下に誇らしげに展示され多くの小学生の興味の的になったそれの中身は、針が傾き虫たちがもがいているように見えた。
「育てたら、どうするの? 夏休みの宿題?」
「外にかえすよ。標本とかは、苦手でね」
 国語の教科書で『少年の日の思い出』っていうお話を読んだらさ……そう言って困ったように笑うその優しげな表情に、ルリは容易く心を許す。リンクを出て、少年の隣に座った。スケートよりも何かを優先させることが初めてだということを、自覚することさえ忘れていた。ねえ、と少年に耳打ちしようとした時、お母さんにも言えないような秘密を打ち明ける気持ちになった。
「なんでスケートが上手にならなきゃいけないと思う?」
 痣がいくつもできた小さな二つの膝を撫でながら、ルリはそう打ち明けた。小学三年生にはまだ、話の文脈を考えることは難しかった。戸惑う少年をよそにルリは話を続けた。
「スケートが上手になって、何のやくに立つの? って言われたの。その時わたしは、何のやくに立つかはわからないけど、ジャンプがとべた時、すっごくうれしいよって友だちに言ったの」
 プリッとした小さな唇を噛み締める。蝶の話をしている時の、あのカッコよくて純粋で綺麗な瞳にルリは憧れた。そして憧れは悔しさとして現れた。キッとアイスリンクを睨んだかと思えば、再びルリは膝のあたりに力なく視線を戻す。
「『じゃあ今度の大会、おうえんしにいくね』って、その子は言ってくれた。でもその大会で私、ジャンプ、しっぱいした。わたしのウソつきって思った。本当ならできるのに、できるのに……!」
 わああと声をあげてもいいだろうほどの大きな感情がひしひしと伝わった。十になるかならないかの小さな体は、アイスリンクの冷気から身を守るだけで精一杯なのかもしれない。
「僕は好きだけどなあ。さっきも見てたけど、蝶々が花を探して飛んでるみたいで、綺麗だったよ」
 少女は呆けたような顔をしていたのだろう。少年がルリの顔に向き直ると、照れたように視線を外して再び話し続けた。
「君にこう言うのもどうかと思うけど、僕はスケートが好きじゃない。でも親がもっと外に出て体を動かせってうるさくてさ。『冬になって蝶も飛んでないんだし、スケートリンクにでも行け』って言われて渋々来てるんだよ」
 ほう、と少年はため息をついた。ルリの目にもだんだん、スケートリンクの中で舞う少年少女たちが色とりどりの蝶に見えて来たような気がした。
「君はすごくスケートが好きなんだね。僕みたいな初心者でも見てわかるんだから。失敗はしたかもしれないけれど、君がスケートをどれだけ好きかは、その友達にきっと伝わってるよ。いや、友達だけじゃなくて、見に来てくれた人みんなに伝わってるんじゃないかな」
「うん、すべってるだけで楽しくて、なんだかうれしい」
「僕もこの、蝶が好きだっていう気持ちを、たくさんの人に伝えたいよ」
 あの白い衣装の小さい子は、モンシロチョウ。オレンジの派手な子は、アカタテハかな。少年は本当に楽しそうに笑う。両親に「ルリは本当にスケートが好きなのねえ」と言われたことを思い出していた。私もこんな表情をしていたというのだろうか。
「僕は、スケートに行くより蝶のことを勉強してる方が好きだなあ。『何の役に立つの?』って僕も言われたことがあるんだ。でも、僕も君と同じことを思ったから」
 少年が右手の人差し指をかぎ状に曲げて、目の前に差し出す仕草をした。その細い指先に、色の見えない美しい蝶が止まっているような幻想を見た。
「空を自由に舞う蝶々を、見れるだけで嬉しくなるんだ」
「わたしも、ちょうちょ、すき」
「ありがとう。僕もスケートのこともう少し勉強するよ」
「なんで? お兄さんが好きなのは、ちょうちょなのに」
 ルリはもっと少年から蝶の話を聞きたいと心の底から切望していた。蝶が好きなこの少年は、きっとどこまでも蝶の話をしてくれるだろうと予感させた。
 そして自分は、フィギュアのことをどれだけ話せるだろうかとも。
「……君は蝶の話を一生懸命聞いてくれただろ。そしたら今度は、僕が君の話を聞いてあげたいじゃない」



 7年前の記憶、なぜ忘れていたのだろう。きっと、彼がそれ以来リンクに姿を見せなくなったからだと思う。正直、あの会話のあとに蝶の勉強をしたことなんてなかった。ただ一度だけ、蝶の図鑑を小学校で借りて開いたことならある。蝶のように綺麗だと言ってくれた、彼の目に自分がどう映っていたのかが純粋に気になったからだ。あの時もっとちゃんと見ておきたかった。16歳になったルリは、はやる気持ちの中で一つ後悔を残した。
 これから私は、彼に会いに行く。
『ルリさんへ
 ルリさんが頑張っているのを見ながら、僕も頑張ることができました。このオオルリアゲハという蝶は、オーストラリアやニューギニアなどの熱帯の地に生息する蝶々です。』
 数枚の写真と、現地の地元紙だろうか、英語で書かれた小さな記事。印刷の荒い白黒写真に一人の白衣の男が両手を広げて微笑むその丸い眼鏡の奥の瞳は、あの日の少年と同じ輝きをたたえていた。
『見ると幸せになれる、とも言われるこの青い蝶は、まさにルリさんのようだと思いました。どうか世界に羽ばたく選手になってください。』
 男の指に捕まって羽ばたく瞬間を待つ青く眩しく輝く二枚の羽。その青はあまりに神聖で、美しいと思った。この蝶のように美しく映っているだろうか。それは正直なところ、ルリにもわからない。
 しかしあの頃よりも、スケートのことが大好きだし、スケートのことを語れる。ルリはその自信を胸に、飛行機が着陸するのを写真を眺めながら待った。


【了】
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