菊の花(1/2)
 バレンタインデーというイベントがある。大雑把に言うと、好意のある相手や世話になった相手へお菓子を贈るというものだ。贈り物には主にチョコレートが使われ、この時期になると製菓会社がやっきになって商品を売り込んでくる。
「でも、じゅんくんは甘い物苦手だったものね」
 そう言って彼女は笑った。早朝の太陽が彼女の横顔を照らす。化粧の控えめな彼女の頬は、薄く艶めいていた。
「さすがにお菓子は置いていけないから、いつも通りお花だよ」
 僕の目の前、両脇の花を取り替えた彼女はいたって明るく笑う。昔と何ら変わりない笑顔――いや、全くと言い切れるほど変化がないわけではないけれど。
 そりゃそうだ、と僕は自分に頷く。そんな僕を前にして、しかし彼女は僕が腰掛けている縦長の花崗岩を眺めて――正しく言い直せば、そこに刻まれた僕の名字を眺めて、くすりと笑う。
「じゅんくんが死んでからもう一年になるのかあ……ホワイトデーのお返しをくれる前に死んじゃうなんて、計算高いんだから」
 冗談言わないでくれ、僕だって好きでバイクにぶっ飛ばされたわけじゃない。そう肩を上下させて身振りで示す。片足を組んで墓石の上に座る僕の姿を、もちろん彼女は見ることができない。だから、大袈裟な身振りのせいで危うく体のバランスが崩れかけるという失態も見られずに済むというわけで。
 慌ててバランスを立て直した僕に気付きもせずに、彼女は自分で取り替えた花をぼうっと眺めた。白、赤、黄、色鮮やかで落ち着く菊の花々。
 まさか自分向けに彼女が買うとは、微塵にも想定できなかったもの。
「また来るね」
 我に返ったように視線を宙から墓石に移して、彼女は微笑む。無意識に鞄の持ち手や鞄の中身をいじくっていた手を止めて、しゃがみ続けていた足を痛めないようにゆっくりと立ち、軽く膝の裏を伸ばして、そして僕の方へと顔を上げる。
 一瞬だけ、目が合った錯覚がした。
「じゃあね」
 彼女がくるりと背を向ける。冬物の可愛いコートは、一年前のデートの時にも着ていたものだ。スカートのようにふわりと広がる裾、そこからのぞく彼女の細い足。歩くリズムに合わせて揺れる、腰の大きなリボン。
 それらを見送りながら、僕は墓石の上でじっと座り込んでいた。


「じゅんくん!」
 一年前の今頃は、雨が続いていた。ちょうどその時は降っていなかったけれど、空は曇っていて、いつ降り出してもおかしくないくらいだった。僕はビニル傘を手に彼女を待っていた。
 赤い傘を持って待ち合わせ場所である公園に来た彼女は、いつもはしない化粧をして、いつもは見ない可愛いバックを持って、いつも通りの格好の僕の前に現れた。
「みきちゃん……お洒落してるねえ」
「えへへ、だって今日は特別だから!」
 高校生の頃から付き合っている僕達は、大学が別になってからは滅多に会うことができなくなっていた。平日はしかり、休日もあまり予定が合わない。それを覚悟で遠距離恋愛を続けていた。
 そんな僕達に神様が微笑んだのか何なのか、休日かつ双方の予定が合う、しかもバレンタインデー当日という奇跡が起こったのが、この日だったわけである。
「ね、ね、今日は何時まで一緒にいられるの?」
「うーん、今夜はバンドの方で打ち合わせがあるから、遅くても八時にはスカイプの準備してなきゃ」
「うちに泊まる?」
「いや、打ち合わせはいつも夜遅くまで続くし、悪いから今日はホテルに泊まる予定にしてる」
「そっか……じゃあ、少しも時間を無駄にできないね! じゅんくんじゅんくん、私スプラッシュマウンテンに乗りたい!」
「いきなりデスカ」
「駄目?」
「せ、せめて観覧車とかは……イヤナンデモナイデスガンバリマス」
 可愛げが欠片しかないジト目が見間違いだったかのように、やったあ、と無邪気にはしゃぐ彼女を横に、僕はこの時盛大なため息をついてみせたわけだけれど。
 ――本当は、彼女の声を直接聞けることが、何よりも嬉しくて。
 そして本当のことを言うと、絶叫系は本当に本当に苦手なんだよなあと嘆いていたりする。


 絶叫系のアトラクションを思う存分楽しんだ彼女と、隠しきれない悲鳴を駄々漏らし魂の半分が離脱していた僕は、ようやく人混みの中から少し外れ、小さなベンチに並んで座っていた。目の前の大きな通路には人がわやわやと溜まっている。夕日もだいぶ傾ききっている今の時間から始まるのは、夜の着ぐるみ大行進だ。
「そろそろ……時間だね」
「……あ、ああ、うん」
「……じゅんくーん? 生きてるー?」
「……あ、ああ、うん」
「もうっ!」
 ぷうっと頬を膨らませた彼女は、僕の方へ背中を向けるようにそっぽを向いた。鞄を膝の上で抱えて、暇つぶしのように持ち手や鞄の中をいじくっている。ふてくされたらしい。けれど、僕は知っている。こういう態度の時の彼女は、大して気分を害してないということを。
「……みきちゃん?」
「……何」
「何隠してるの」
「かっ……くしてなんか、ないしっ」
「鞄の中身そんなにかき回しておいて?」
「うっ」
 図星ですと言わんばかりに言葉に詰まった彼女に、僕はニイッと笑ってみせる。今日が何の日かは知っている。そして、彼女が何を隠しているのかもわかっている。
「なーに、みきちゃん、鞄の中にあるものは」
「なっ、何でもないっ」
「へえ……じゃあ僕もう帰っちゃうよ?」
「いっ、意地悪っ! じゅんくんの意地悪っ! 最低! 馬鹿! 間抜け! とんちんかん!」
「おうおう、言ってろ言ってろ」
「あんぽんたん! 馬鹿! あほ! どじ! でべそ!」
「何ちゅう低レベルな罵り文句……」
「う、うるさいっ! じゅんくんなんか、じゅんくんなんか……」
「うんうん?」
 あわあわと唇を震わせて、彼女は次の言葉を宙から探しているかのように目を泳がせる。そんなところに答えは浮いてないだろう? 僕はにやにやと笑ったまま彼女の頬を両手で挟んでこちらに強引に向けさせる。
「むむむむ……!」
「はいはい、ちゃんとこっち向いて」
 彼女の潤んだ目に、僕の顔が映る。
 掌の中の頬が、熱い。
 柔らかなその頬は、何かを訴えるような眼差しは、少し突き出た艶やかな唇は。
 確かに、僕の両手の中に、ある。
「――で、じゅんくんが何だって?」
「……意地悪」
「もっと正直に行こう」
「……馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿」
「待て待て」
「ばーかばーか! タンスの角に足の小指ぶつけて三時間動けない弱虫! 八掛ける三を二十一って間違える大学生! テスト用紙に名前書き忘れて零点取ったことがある正真正銘の馬鹿!」
「こういうシチュエーションをぶっ壊すの、ほんと君得意だよね!」
「むぎゅううう」
 思いっきり頬を挟み込む。唇をとがらせた彼女がムームーと牛のように抗議の声を上げた。全く何なんだこいつは。可愛げが欠片しかない。
 呆れる僕と暴れる彼女は、その後仲良く手を繋ぐ――わけもなく、罵り合いながらテーマパークを後にするわけだけれど。
 こんな日々がずっと続くものだと、僕らは証拠も根拠もなく、疑うこともあえて口にすることもなく、そう思っていたらしかった。

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