宗教勧誘くらいしか鳴らさないインターフォンの音で目を覚ました僕は、苛立ち半分にドアまで近づいて覗き窓に顔を寄せた。絶対に扉なんか開けてやるもんか、と右目を見開けば、その顔は見覚えのあるものだった。
 考えの整理がつかないまま、とにかく鍵を開ける。扉は外開きなので、僕は内側から押す形になる。訪問者は体を引いてその扉を避け、瞬きする僕を見るとにっこりと笑って言った。

「ね、作曲してるところ見たいんだけど。今いい?」

 彼女の要求は相変わらず、唐突だ。



 一人暮らしといえど来客一人くらい対応できる程度の用意はしてあるだろうと無意識にたかをくくっていた節があったようだ。コップは一人分しか洗われてないし、飲み物は僕が好むコーヒーしか置いていない。「急に来た私も悪いし、コーヒー飲めないから。お構いなく」と言われた時は目がくらみそうになった。

「で、何だっけ。作曲?」
「うん」
「見てどうするの」
「見たいと思ったから見たいの。それ以上の理由欲しい?」

 相手に断らせないものの言い方を、彼女はいくつ知っているんだろう。別に理由がなければ見せられないものでもない。僕はノートパソコンをデスクから卓袱台に降ろして彼女が見やすくなるように周りを片付ける。パソコンが立ち上がるまでの数分が、なんとなく落ち着かなかった。

「まずこれが譜面を書くためのソフト。楽譜は読める?」

 僕の質問に、彼女は少しだけ、と困ったように笑った。その少しがどれくらいなのかは気にしないことにして、新規作成ボタンを押す。

「わ、休符だらけ」

 どうやら休符と音符の違いは分かるようだ。探るように話を進めていく。

「最初はこんな風にまっさらな状態。鍵盤を弾くと音とリズムがそのまま音符として入力されていくよ。細かい修正はこうやってマウスでも出来る」

 実際に『ドレミの歌』のドーナツのくだりを弾いてみせる。入力された音符をマウスで掴んで引っ張り音階を変えてみせると、彼女はへええ、とため息をついた。

「まずは思いついた旋律を入力して、その次にそれを支えるコードを入力していく。やり方は人それぞれだろうけど、僕はそうしてる。大体6パートくらい用意して、頭の中にいる6人が演奏しているところをイメージする感じで進めていくよ」
「演奏してるところを、イメージするの?」
「そう。例えばギターが二人いて、ドラムがいて、キーボードがいて、ベースがいて、真ん中に……」

 ちらっと彼女の方を見た。まなざしが熱い。

「ボーカルがいて、みたいにね」
「んー、そうなんだ」

 もっぱら彼女が歌う事を想定して曲を作っているのだから、別に彼女が歌っているところを想像しながら曲を作っている事は恥ずかしがる事でも照れることでもない。頭では分かっているし、実際僕の中のもう一人の僕は理解している。
 僕はやっかいだ、自分でもそう思う。



 ドレミの歌の楽譜は保存せずに消して、今度はミュージックフォルダを開く。その中で一番作成日が新しいファイルをダブルクリックすると、黒々とした譜面が現れた。

「ちょうど作りかけの曲があるから、今日このあとはその続きの見学で勘弁してね」
「うわ……音符ってこんなにたくさんあったんだ」
「まあ、絵で言えば重ね塗りみたいなところがあるからね。こうなっちゃうんだよ」

 それから彼女はほとんど何も言葉を発さずに僕の作業を隣で見届けていた。僕もだんだん作業に没頭し始め、彼女がいることも束の間忘れる。
 音楽は文字や絵のように形に残らない。楽譜という形に昇華することはできても、音楽そのものは生まれたその瞬間は霧のように掴めなくて見えなくて、そしてとても儚い。
 だけど音楽はそれだけでドラマだ。安寧を崩す不協和音に心を乱され、そこから救われるような音を用意しておく。さりげなく置かれたリズムのつまづきに息を詰まらせ、音のない一瞬に胸を高鳴らせる。音楽と音楽が僕の中でぶつかり合い、水素爆発のように弾けて、『僕の音』が生まれる。まっさらな休符だけだった五線譜を埋めるように並べられていく小さな黒い音の粒は、それだけを見れば驚くほどに静かなたたずまいをしていると思う。

「……やけに静かだね」
「偉大な才能を目の前に言葉を失ってるの」
「……」

 一瞬言葉を詰まらせたのは、彼女の相も変わらぬ熱っぽい瞳に押されたからだった。僕は斜め下に視線を流して小さく答える。

「……褒めすぎ」
「褒めてない。正直な感想」

 褒めてないのか、と素直に凹む僕も大概単純だ。



『歌ってみたい。誰かに聴いて欲しいんじゃなくて、純粋に声に出してみたいの』

 その強気な顔を思い出しては譜面と対峙する日々が続いている。初めて作った曲を休憩時間の講義室で彼女に聴かせたときのその表情は、曲を作り続けている限り忘れる事はきっとないんだろうなと一人で苦笑した。
 何かにのめり込むのに理路整然とした理由なんてないんだと思う。もし好きなもの、好きなことにはっきりとした理由が述べられるとしたら、きっとそれはまだ自分と一体化していないだけ。例えば呼吸をするように、はたまた空腹を満たすように、僕はわけもなく曲を作り彼女は夢中になって歌を歌うっているんじゃないだろうか。
 強いて何か裏付けめいた事を言おうとすれば、かっこつけるわけでも何でもなく、ほぼ言葉そのままの意味で”生きているから”なんだと思う。

「できた……」

 肺の底から吐き出されたため息。張りつめた緊張がほぐれたのか、少し視界がぐらっとする。
 急かす彼女にヘッドホンを渡して、再生ボタンを押す。冒頭、三つの四分休符と八分休符にせき止められた音楽が流れ出した瞬間に彼女が目を見開いたのが、音がなくても分かった。



小指と小指絡ませて
離した指先からほら
見えるよ細い細い赤い糸

そっと唇を寄せて僕にしか聞こえない
まだか細いけれど君と僕は繋がっている

苦しいとき悲しいとき
君の小さな叫び声が
届きますようにと願ってる空に

吐息も咳も聞きたいよ
その糸少しでも緩めば
どうして何も君に届かない

眠れない夜をいくつ重ねれば眠れるだろう
「好きだ」なんて簡単に言えたらきっと楽なのにね

"辛いことはありませんか?"
君を大切にしたいという
僕の気持ちふわり雪と舞う空に

嬉しいとき楽しいとき
花咲くあなたの笑顔は
僕だけのものだと願ってたけれど

見えないあなた想います
いつでも心のまま笑っていて
たとえ傍に僕がいなくても




 再生時間を示すカーソルが一番右端にたどり着き、さらに彼女が感傷に浸る時間も待って、僕は彼女からヘッドホンを受け取った。

「……タイトルは、『糸電話』。どうかな」
「いい。前のもそうだけど、こういう静かな曲、好き」
「それはよかった。やっぱり人に見られながらってのは緊張する」
「二、三日くらい缶詰も覚悟だったのに。作るの早すぎる」

 今まで見せたことのない膨れた表情。危うく緩みそうになる顔を、僕はどうにか右手で隠すようにして答えた。

「待ってる人を待たせるのは趣味じゃないから」

 再びヘッドホンを僕の手から奪い、二回目の再生。その最中彼女はメロディーを口ずさみ始めた。思わず曲に没頭している彼女に声をかける。

「もしかして、もう覚えた?」

 こくりと頷きながらも返事はない。僕はヘッドホンをしながら作業をしていたから、楽譜の読めない彼女がこの曲に触れた瞬間といえば一回目の再生と作業中の僕の鼻歌くらいだっただろうに。それはそれで、人にはない彼女のセンスだ。
 白くて細い指でリピート再生ボタンをコツコツと指差し、僕に押させる。何も彩られたりしていない丸い爪だ。

「まだ完璧じゃないから、今夜は歌わない」

 ぎゅっと両耳にヘッドホンを押さえながら彼女はそう言った。

「そのかわり、ずっとここで聴いてたい」

 僕の背中を背もたれに、彼女の意識はヘッドホンに沈んでいく。リズムを刻む体の動きと彼女の生命の鼓動が僕の背中にダイレクトに届く。
 限りある時間を「ずっと」と言うその罪深さを、君はきっと知らないのだろう。音符の数も、曲を作っていられる時間も、人生さえも有限だ。この世に確かなものなんて一つもない、この世は嘘だらけだと信じてやまない自分がいる。
 恋をしている自分が、時に滑稽に感じる。しかもよりにもよって完全な片想い。僕は何を期待し、何を信じればいいのか分からないままにただ彼女に恋をした。きっと最初から手遅れだったんだ。彼女の待ち受けを見てしまった時から、少しずつより合わされて伸びていった糸。『特別』はまるで呪いだ。この呪いのせいで、想いの糸が断ち切れない。もしいつか彼女から「こういう歌詞はどうして浮かぶの?」と聞かれた時に、答えるそれらしい答えを僕はまだ用意していない。

「はあ、寝てるし……」

 すう、と小さな寝息が背中側から聞こえてくる。腕を伸ばしてブランケットを引きずり出したはいいものの、背中にもたれるように眠る彼女にそれを掛けるのは至難の業だった。
 僕も少し休みたい。彼女の夢の中で僕の曲が鳴り響いている事を思ったら、少しだけ背中が熱くなるような気がした。

【了】
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