「近所で夏祭りがあるらしいんだ、行かない?」

 夕日色に染まる教室の中、そう言って勉強道具を片付ける僕にズズッと顔を寄せて来たのは、クラスの可愛い女の子――ではなかった。

「……何でお前なんかと」
「何でってなんだよお、つれないなあ」

 ぶう、と声に出して不満を表現する男子生徒に、僕は大きく大きくため息をついてみせてやる。くいっと眼鏡を押し上げた。

「僕はですね、どうせ受けるなら可愛い女の子のお誘いを受けたいんですよ。彰人みたいな可愛げの全く無い男じゃなくて」
「え、可愛げ満タンじゃん、ちょーきゅーとじゃん、ほら、見てよこのアキチャンのつやつやの肌」
「汗でぎとぎとしてるだけじゃん」
「口にしてはいけない真実がこの世には存在するのです。お気を付けなさい……」
「誰だあんた」
「カオルクンの最愛のヒ、ト」
「最悪の人、の間違い」
「そんなバナナ」
「あ、そうだ、帰る前に職員室に行かなきゃ。この教科書の答え間違ってる」
「そ、そんなバナナ」
「数学の時間に言えれば良かったんだけど、確信が持てなくて。でもさっき解いたらやっぱり違ってて」
「いやちょっと待って待ってボケを無視しないで、お願いだから!」

 がしりと両肩を掴まれた。日に焼けた肌が夕日を反射している。僕が移った両目がうるうるとしているのは、きっと先程彼が差していた目薬だろう。

「俺寂しくて泣いちゃうから! ね、薫!」
「わかったわかった、よくわかんないけどわかった」
「わかってないんかい」
「理解に努めていない」
「努めて」
「義理がない得がない理由がない。まあそれはともかく」
「待って突っ込みどころたくさんあったよ今」

 反論しようとする彼の腕を払い、眼鏡を押し上げる。

「で、何だっけ」
「夏祭り」
「それが何だって? 主語述語その他諸々をつけてもう一度言いなさい」
「俺は、夏祭りに、行きたい!」
「あ、そ」
「反応薄っ!」

 再び涙目になる彼に深いため息を聞かせ、僕は机の上に頬杖をついた。机が夕日色になっている。早く帰りたい。宿題が大量にあるし、予習もしなきゃいけない。
 がたり、と立ち上がり、机の横にかけていたバックを手にする。

「じゃ」
「……いやいやいやいや」

 そのまま教室を出ようとした僕の腕をがっしりと掴んでくる。うっとうしそうに見れば、彼はやはりうっとうしい目のうるませ具合で僕を見ていた。

「……うっとうしい」
「酷っ! それ人に向けて言う言葉?」
「人だったんだっけ」
「そりゃないわ」

 教室には誰もいない。それもそうだ。もう放課から数時間経っている。みんな部活にいったり遊びにいったりしている時間だ。テスト前でもないのに教室にいる人なんていない。
 だからこそ、僕はこんな時間まで教室にいたのだ。

「こんな時間まで教室にいる奴が人間なわけないだろう」
「……それ薫もじゃん」
「言い直す。こんな時間まで僕の勉強を邪魔し続け横からBGMの如く無駄話を続けた迷惑極まりない君が、人間なわけがない」
「……うっわあカオルチャンまじぎれ」
「うるさい」

 突き放すように言っても、腕を掴んでくる彼の手の力は全く衰えない。

「……全く」

 それどころか、大人が子供にするような、呆れたと言わんばかりのため息をつくのだ。

「これだから県トップの成績の持ち主は」
「何が不満なんだよ」
「いや。むしろお前らしくて良いんじゃね?」

 そう言って、彰人は苦笑する。

「もうちょっと愛想があれば、なおさら良いんだけどな」
「……余計なお世話だ」

 力を込めて腕を振れば、彼の手は簡単に外れた。




「で」

 ひくつく顔を隠すように眼鏡を押し上げる。

「何で僕はここにいるんだよ? 彰人」
「ふへ?」

 ベンチの隣で焼きそばを口いっぱいにほおばりながら、彰人はこちらを見た。そのあほ面は、ため息を禁じ得ない。実際にため息をついて、未だに少し痛む二の腕をさする。
 少し見上げれば風に揺れる提灯が目に入る。少し耳をすませば楽しそうな歓声が聞こえてくる。少し集中すれば、地面を揺るがす子供の足音が響いてくる。
 がんがんに鳴り響く盆踊りの歌。時折聞こえる酒飲みじじいの笑い声。悲鳴なんじゃないかと疑うような甲高い子供の声。
 我慢がならない。

「……うるさい」
「まあまあ、この喧噪を楽しむのが夏祭りの醍醐味っしょ」
「僕はそういうのが嫌いなんだ」
「じゃあなんでここにいるの?」
「それは僕が聞きたい!」

 教室から出て、家に帰って、静かな自分の部屋で勉強を再会するつもりだった。なのに、このお節介が、ひっつくような笑みを浮かべつつ腕を引っ張り引っ張りここへ連れてきたのだ。

「見ろ! 僕の腕にはまだ君の強引な力の行使の痕跡が」
「やーん、カオルチャンいやらしい」
「なんでそうなる!」

 指の形が赤く残る腕をさすりさすり怒鳴る。もう少し手加減をしてくれれば良かったものを。そうしたらとっとと逃げ出して家に帰れていたのに。

「おーい、ビンゴゲームが始まるぞー!」

 ガキ大将のような丸坊主の少年が叫びながら走っていく。あれで舌を噛まないのだから、子供は器用だ。
 丸坊主の少年の後を子供達が走っていく。彼らが向か先にはテントがあって、運営担当らしいおじさんがカードを配っていた。

「薫もや」
「やらない」
「即答かよ。つか最後まで言わせてくれよ」
「断る」
「断られたー」

 底抜けに明るい声で、体を反らせる。膝の上に乗った透明なパックはすでに空だった。焼きそばはもう食べ終わったらしい。

「じゃ、俺はもらってくるわ」
「は?」

 彰人が立ち上がる。ぱんぱんとお尻をはたきつつ、こちらを見下ろした。

「来たからには楽しまないと、な」
「……強引に連れてこられた身としては、全くもって楽しめない」
「そー言っちゃって、実は楽しいくせにー素直じゃないなー」
「んなわけあるか」

 きしし、と笑い、彰人は子供に交じってテントの方へと歩いていった子供達と彰人の身長の差が大きい。そのせいか、彰人が巨人のように見えた。
 ふ、と息を吐いて空を見上げる。いつも薄い青の空は、夕日の色さえも失って、黒へと近付いていっている。
 こうして、今日が終わっていく。そしてまた、明日がやってくる。いつも同じだ。変わらない繰り返し。僕もまた、同じ日々を繰り返している。
 今日だって、きっと、何てことのない一日と同じように、何も残らずに終わっていくのだ。

「おー、空が綺麗だな」

 突然の声にそちらを見る。彰人が空を見上げながら帰ってきていた。顔を上に向けたまま、ベンチに座る。器用だ。

「すっげーな、こう、時間によって色が変わるってのは」
「時間によって変わるんじゃない。光が大気を通過する距離の違いによって変わるんだ」

 上を見上げるのを止め、ずり落ちた眼鏡を押し上げる。

「昼間は、太陽光は地球大気を通過すると大気中の分子とぶつかって光りを四方八方に散らす。これをレイリー散乱というんだけど、これの時、青い光が最も散乱するから、空のあちこちから散乱してきた青色の光が僕達の目に多く入ってくる。だから昼間の空は青く見える。対して夕方は太陽光は地上に対して斜めに入ってくる。この時、昼間より光が大気中を通過する距離は長くなって、つまり光が散乱する距離が長くなる。そうすると青色の光は僕達の目に届く前に散乱しきっちゃって、僕達の目には青以外の光が届くんだ。そうすると、空は赤っぽくな――」
「はいはい」
「んんっ!」

 言っている途中の口元に、彰人が何かを突っ込んできた。視界をピンク色の物体が塞ぐ。鼻先にふわりとした、しかしべとついたものが触れた。口の中に甘い何かが入ってきて、しかしすぐに溶けてなくなる。

「こんな時まで難しいこと考えてるなよな、つまんねえだろ、俺が」
「んんんっ……!」

 顔に押しつけられるそれをはがそうと伸ばした手に、細い棒が渡される。それを持って、僕は顔からその物体を離した。ようやく、目の前に輪郭のはっきりしない薄いピンク色のものが認識できる。

「わたあめ……何で」
「我が輩は彰人、わたあめを買ってきた張本人である。理由はまだない」
「まだも何も、これからもないんだろ」
「あ、ばれた?」

 へらりと笑った彰人にじとりと目を向ける。すると彼は妙に楽しげに続けた。

「でも、悪くないな。こう……いつもカタブツな薫がわたあめ持ってるの見ると」
「は?」
「なんか……可愛い」
「気持ち悪い」
「そこ即答しないで!」

 わたあめが触れていた唇を舐める。甘ったるい香りに似合った、甘ったるい味が、ねとり、と口内に広がる。顔をしかめた。

「……わたあめと言うと聞こえは良いけど、これ砂糖だからな。一つにつき十五から二十グラムの砂糖が使われるっていうし。ちなみに一般のジュースには百ミリリットルあたり十グラムくらいは使われていると見た方が良いだろうね。最近WHOが一日の糖類摂取量を二十五グラムと定めたから、わたあめ一つ食べた日は他にジュースを飲むことはできないってこと」
「あーもー、お前な、考えすぎだって」

 呆れたように額に手を当てる。あのな、と呟くように、しかししっかりとした声で明は言った。

「お前、もっと人生楽しめよ。もっといろんなことしろよ。つまんねえだろ、毎日毎日勉強ばっかじゃ。つまんないんだよ」
「……僕の感情を他人の君が断言しないでくれるかな」
「良いだろ、つまんないんだから」
「いや、僕は」
「つまんないんだよ、俺が」

 どこか投げやりに、彼は言った。眉を寄せ、あらぬ方を見る。

「……もっと、楽しそうにしてくれよ」
「良くわからないんだけど」
「わからなくて結構。僕の感情を他人の君が理解しないでくれるかな」
「何それ」
「薫の真似」
「似てない」
「そりゃどうも」

 大袈裟に肩をすくめる彰人に、こちらも肩をすくめたくなる。
 その時、盆踊りの音楽が鳴っていたスピーカーがキィンと高い音を響かせた。

「――えー」

 中年のおじさんという風の声がキィンという音の中から聞こえてくる。

「ではぁ、これからぁ、ビンゴ大会をぉ、始めるのでぇ」

 会場がざわめく。マイクによって拾われる声はスピーカーによって間延びされ、遠くへと木霊していく。

「よっし!」

 彰人が突然立ち上がった。

「行くぞ、薫!」
「は?」
「ビンゴだ、ビンゴ! 我が運を試す時! 運命の女神に俺の実力を見せつける時!」
「はあ」
「……なんだよ、やる気ないな」
「元からない」
「ったく、ほら」

 す、と目の前にカードが差し出される。真ん中だけ穴が開けられた、ビンゴカードだった。

「……え」
「お前の分」
「何で」
「やろうぜ。どうせ参加費タダだし。どうせ来たなら食べるだけじゃなくて、豪華賞品を持ち帰ってだな」
「なんでもう真ん中開けちゃったんだよ」
「って突っ込むのそこ?」
「ビンゴの醍醐味は始まる直前に無条件で真ん中を開ける事だ。元から開けてあるカードに僕は興味がない」

 ふいっとそっぽを向く。彰人が呆然としたように呟いた。

「……以外とちっけえ思考だな」
「うるさい」

 突き放すように言ったはずなのに、視界の端で、彰人は笑う。楽しげに、面白そうに。

「よぉーっし、一番にビンゴして豪華賞品をゲットしてやる!」

 周囲の目も気にしない勢いで拳を突き上げる。周りにいた家族連れが何事かと彰人を遠巻きに見ていた。はあ、とため息をつく。

「……馬鹿馬鹿しい」

 始めますよぉ、とマイクから声が聞こえてくる。話している人の傍からカラカラという音が聞こえてきた。出ましたぁ、と宝くじのような声を上げて、マイクの向こうで番号が読み上げられた。

「最初の番号はぁ、五十八番!」

 ああ、という落胆の声のなかに、あった、という歓声が混じる。

「ああ、くっそ……」

 彰人はというと、ドリームジャンボを大人買いしたのに一枚も当たらなかったサラリーマンのようにがっくりとうなだれている。鼻で笑い、そして目の前のピンク色の物体を見た。細かい繊維状のものが絡み合い、空気を含んでふわふわとした外見を保っている様子をじっと見つめる。
 単なる砂糖の塊だ。角砂糖をかじるのと何ら変わりない。しかし。
 そっと口を寄せる。唇にふわりとそれが吸い付く。ついばむように口に含むとあっという間に溶けてなくなった。あっけない。物足りなさが不快だ。
 けれど、確かに口の中には、ねとりとした味があって。

「……甘い」

 そこにわたあめの一部が存在していたことを教えてくれる。
 空はもう黒一色になっていて、提灯が映えていた。今日もまた、太陽が沈んだのだ。もう数時間経てば、また太陽は東から昇ってくる。地球の自転が止まらない限り、いつまでもその繰り返しは続く。
 日常も、また然り。
 そう思いはするけれど。

「……いつもと違う時間の過ごし方も、良いかもしれないな」

 もう一度わたあめを口に含む。またあっけなく消える。この一日も、これから重なっていく日々の中に埋もれて、消えていくだろう。
 でも、この味のように、確かな何かが残る気がするのだ。

「薫!」

 彰人が駆け寄ってくる。

「あのな、あのな!」

 歓喜にほころぶ顔を向けてくる。

「一個、開いた!」
「……あ、そ」
「反応薄っ!」
「だってもう七個の数字が言われてたじゃん」
「う」

 彰人ががっくりとうなだれる。その様子に、くすりと笑う。またわたあめを食べた。
 この甘い味は、当分忘れることはないだろう。



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