今様歌物語
〜ここにいたい〜
前編02
教養棟は縦に長いくせにエレベーターの設置が無い。白い階段を何も考えずに歩いていると、505講義室は最上階の奥の突き当たりにあった。ここが私たちの部室だ。活動をするには十分な広さを持つその講義室に入る扉を抜けると、はるか遠くに黒板が見える。この講義室の扉は、後方のこれしかない。
「初めまして、私はこの文学サークルの長をつとめます石川萌江です。新規の方もそうでない方もどうぞよろしく」
今日は新規メンバーを交えた初めての活動日。毎年恒例のアレが、今日もやってきた。
「それでは早速ですが自己紹介にしましょう。名前、学部、学年、そして一言お願いします。……では、そちらの方から席順に」
石川さんは、右角に座る男子学生を指差した。見ない顔だ。ガタガタンと大きな音を鳴らしながら慌ただしく席から立ち、彼は大きいお腹で一つ深呼吸をした。
「こ、小玉徹です。ぶ、ぶん、文学部一年生っす。重松清さんを、そん、尊敬しています。よろしくお願いします」
おぼつかない呂律で自己紹介を終えた彼を、あたたかい拍手と少しのひそひそ声が迎える。
ふるさとの訛なつかし停車場の――。
石川啄木の歌を思い出す。小玉くんの話し方には少し北の訛が混じっていた。独特の訛とは縁のないところで私は産まれ育ったけれど、その言葉まわしはなんとなく懐かしい気持ちにさせてくれる。
ざっと周りを見渡せば、引き継ぎを終えてからメンバー数が心なしか減ってしまったようだ。見覚えのある顔がいくつか足りないような気もする。次々と終える自己紹介に向けられるぱらぱらという拍手も、一つ一つはあたたかいが何となく物寂しい。
「はい、ありがとう。では次は……」
「はい、僕です」
そんなに多くもないメンバーの中で、その順番は思いのほか早くやってくる。私の隣に座っていた灯火野くんが椅子をさっと引いて立ち上がる。
「新規の方々は初めまして、そしてようこそ文学サークルへ。法学部二年の灯火野智哉です。一言、といっても僕は話を一言でまとめるのが苦手な人間です。だからと言ってはなんですが、大学生活はもっぱら小説を書く毎日です。
新入生向けのサークル紹介冊子を読んでくれた方もこの中にはいらっしゃるかと思います。僕はこのサークルに出会ったこと、そして今もこうして所属していることをとても幸せに思っています。……なんて言うとちょっと宗教っぽいですね」
くすくす、と小さな笑いがこぼれる。灯火野くんはこの一年で話をするのが上手くなった気がする。少し岡田さんに似てきたかもと言えばそんな気がしないでもないけれど。
「何か新しく斬新なものを持っている人と出会わないと、僕は僕である続けることすら出来ないと感じました。そして僕の中にまた『語りたいこと』が一つ増えた。僕はこれからも沢山の人に出会いたい。沢山のことに出会いたい。そしてその一つ一つを大切にできる人間になりたい……。そのために僕に必要なものが文学であり小説だったんです」
この真っ直ぐな瞳は、そのまま彼の進む道に伸びている。彼は考える、時に信じる。そしてただ止まらずに歩き続けるのだ。
「先輩としてはまだふがいないところもあると思いますが、本音を言い合えるような関係になりましょう」
ご清聴ありがとうございました、と灯火野くんは挨拶を締めくくった。惜しみない拍手と眩しいまなざしが、彼が席につくまで送られる。
「はい、次よろしく」
灯火野くんが私にそう目配せした。灯火野くんの次ほど挨拶しにくい順番はない。困ったようにしか笑えず、話す前におまじないのように咳払いをした。
「震う指触れし扉のその先は君が歩いた途への思い」
すっと空気が澄んだような感覚。それは、周りのみんなから私が少し離れたところにいってしまったような気もすれば、ぐっと詰め寄られるような感じがする時もある。まだその感覚の真相が掴めなくて、私は少し寂しいと感じる時がある。
「史学部二年、雨掛陽瑞です。よろしくお願いします」
気の聞いた洒落の一つも言えない自分が時々恥ずかしい。うつむき加減で私は静かに席に着く。
「では最後ね。名前と学部と学年、そして何か一言あったら言ってもらって構わないわよ」
部員の中で一番後ろに座っているは灯火野くんと私だとばかり思っていたから、石川さんが右手で指し示す方向がそれよりもさらに後方だったことに驚いた。振り向けば、講義室の後ろの壁にもたれて立っている青年がいる。彼は組んだ腕を動かすこともなく、器用に壁につけていた背中を離しながら口を開いた。
「ハヤミシュン、経済学部一年。別にここに入るつもりは全然ないけど、短歌とか詩を書くのに興味はある。まあ、なんつーか……」
灯火野くんが彼の言葉に口元を緩めたのが見えた。きっと私もそうだったと思う。私が知る限り、主に詩を書くという人はこのサークルにはいない。どんな詩を書くんだろう。どんな歌を詠むんだろう。少し高めの、透き通って質感の滑らかな声は、どんな言葉を紡ぐのだろう。
そんな期待は、思わぬ衝撃によって一瞬で粉々にされる。保たれていた静穏も唐突にざわめきに変えられる。
「小説なんて、俺にとっては何の意味も持たない。書く奴の気も知れない」
シン、と静まり返った講義室。窓の外で鳥が羽ばたき去るのが聞こえたほどだった。
言い捨て、黒板を睨みつけた彼は講義室を出て行った。荷物はほとんどない、文字通りの軽装だった。
数秒の間の後に、なんだあいつ、何しにきたんだよ……などと様々な言葉がざわめきの中を飛び交う。
「落ち着いてください。まずは自己紹介を終わらせましょう。今日はそれで解散とします」
動じない石川さんの的確な指示で、にわかにやってきた雑然とした空気が一掃される。私は少しだけ、石川さんを見直した。あの細い体から溢れ出す存在感。あの人がサークル長に選ばれそれを引き継いだことに、初めて納得と安心を覚えたかもしれない。
「どうしたんでしょうね、突然あんなこと……」
灯火野くんにそう耳打ちしようと隣に顔を向けた。でも、それはできなかった。
瞳は少しだけ形を歪め、ただ開いて閉まっただけの講義室後方の扉を鋭く見つめている。震える唇はただ一言を漏らしただけだった。
「ふざけるな……」
もしかしたら、彼が怒りをあらわにするのを見たのは初めてだったかもしれない。普段が穏やかなだけにそれは、こちらの息が詰まるほどの熱を持っていた。
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