今様歌物語
〜うまく言えない〜
06
「……ん?」
重い頭を机から引き離した。少し、首の筋がピキキと痛んだ。
「あ、空気を入れ替えようと思って窓開けたんですけど、起こしちゃいましたか? 寒くないですか?」
頬をさすような冷気に混じった真っ直ぐな日差しが、僕に今の本当の季節を教えてくれる。
「僕、寝てた?」
「ええ、私がトイレに立ってる間にその姿勢になってましたよ」
ほら、ノートパソコンはちゃっかり隣の机に移動してるし、と言いながらくすくす笑う陽瑞さんに、さっきまで話していた君の面影が重なる。窓に向き直って窓枠から顔を出しながら、陽瑞さんは言った。
「灯火野くん、見てください。
雪の中そっと芽を出す桃色がふわり香った春は隣に
やっぱりもう、春なんですね」
開け放たれた窓枠を飛び越えて、春の白い粒子が部室一杯に広がっていく。新しく生まれた空気の流れが淀んだ僕の頭の中を一瞬空っぽにした。その粒子達が振り返った陽瑞さんの頬にあたってはじける様子さえ見えた気がした。
「私、まだまだ書けます。なんだか急にいろんな言葉が湧いてきたんです」
すくって余るほど丁寧な言葉遣いに、目の前にいるのが正真正銘陽瑞さんであることを確認する。あまりに気まぐれな君の登場に、苦笑を浮かべるのが精一杯だった。
「僕だって」
君の力のお裾分けだろうか? 目の前の彼女の表情は先ほどとは打って変わってとても生き生きとしている。
「書き上がったら、見せ合いっこするっていうのはどうですか?」
「いいね、望むところ」
ニッと笑い合って、どちらからともなく机に向かう。それから僕らの作品が完成するまで、僕がキーボードを叩く音と陽瑞さんがノートにシャーペンを走らせる音だけが、流れ込んだ春風と一緒に部室を満たしていた。
僕は執筆中、少しだけ君のことを思い出していた。君に最後に会った日も確か、こんな季節のこんな天気だったから。
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