10.二年生夏

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 いい人だったのよ、と彼女はぽつりと呟いた。過去形なのが少し、気になった。

「これ以上一緒にいるのは適切じゃないと思った。彼が深みにはまればはまるほど、私はどうしようもない『ぬかるみ』になっていく。見ていられなかったの。ぬかるみに足を取られていくあの人も、あの人を引きずり込む私という存在そのものも」

 波に濡れた砂は重く、左良井さんの足跡は深くついてはすぐ消されていく。

「それでも私は、私が彼につけた傷をどうにかして癒してあげようとした。私がつけた傷だったから。かつて私は、彼を心から想っていたーーそれは確かな事実だったから」

 波打ち際で白い泡が両足を浸す。サンダルのつま先についた小さな海藻を片手でつまみ上げて波に返す。その仕草が、うつむいた表情が、目をそらせないほどに儚い。
 悲しいというよりもそれは、何かに対して怒りを覚えているような、悔しそうな表情だった。

「お互いが離れて一人暮らしを始めて、彼はとても不安定だった。彼の側に私がいる限り、傷は傷のまま残ると思ったの。傷が癒えても、私は傷跡として彼の一生に影を作る。だから私は、彼から離れた」

 でも、それでまた彼を傷つけたのかもしれないと思うと、と彼女は唇を噛む。

「今までは、必要とされることが愛されることだと思ってた。でも、あなたに会ってそれは違うんじゃないかなって思うようになった。その途端に、これでしょう?
 何が正解なのか……もう、なにも分からないわ」

 夕日が沈み始めた赤い海が、彼女が投げた小石を飲み込んだ。一石を投じたところで水面は表情を変えたりはしない。

「取り返しのつかないことなんて、いくらでもあるさ。時間を巻き戻せない限り、そんなことは絶対無くならない。
 後戻りの効かない数直線上を僕らは前進するしか無いんだもの。ついた足跡は消せない、そのまま歩き続けて忘れてしまうことしか出来ないよ」

 僕らは立ち止まれない靴しか持っていない。
 僕らはその靴に歩かされているに過ぎない。

「いいことがあっても悪いことがあっても、何も無くたって前進は前進さ。そう信じて生きていくしかない。
 正解なんて結果論だよ。正解ばかり見ているんじゃ、それこそ何も進まない」

 夕日は沈みかけているのに、なぜかやけに眩しい。逆光になった左良井さんの表情はただの影だ。僕には何も読み取れない。

「やっぱり、私に幸せは似合わないのね」


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