第6話-2
暖炉に明々と火が点っている。鮮やかな炎が揺らめくたびに、僕の影は濃淡を変え、部屋のなかを踊り回る。
リーレイの家には、およそ装飾というものがない。あるものと言えば、たいした特徴のないふたり掛けのソファに、木製のテーブルにかけられたクロス、そして花柄のカーテン。他に、たとえば観葉植物や花瓶、ぬいぐるみとかそういった類もない。少なくとも僕は見たことがない。あくまで実用性重視のインテリアだ。確か彼女の部屋も、似た感じだったように思う。
僕は爆ぜる暖炉の火をなんとはなしに眺めて、そんな思いをつらつら巡らせていた。
当の彼女は、暖炉に火を点けると、取ってくるものがあると自分の部屋へ向かった。それから十分くらいは経った気がするけれど、いまだ戻ってこない。時計があるわけではないから、まだ数分なのかもしれない。
僕は立ち上がって窓の外を見た。カーテンはひかれていなかった。昼間はのっぺりとした水色を広げていた空も、今やすっかり藍色だ。月はない。
そういえば、僕はこの世界の月を目にした覚えがなかった。
だから、たまたま今夜は月が出ていないのか、それとも月自体が存在しないのか、それは今の僕には判らない。
月はなかったけれど、星明かりはいくつも瞬いていた。……田舎の星空は、こんな感じなのだろうか。
なんとなくそんなことを思って、それから次に、蛍雪もこんな感じかなと思った。雪ではないけれど。
「何を見てるの?」
後ろから声がする。僕は振り向かずに答えた。
「別に、何も」
「星が綺麗ね」
返された言葉は思いの外近くから聞こえた。
そっと横目で窺うと、リーレイは僕のすぐ隣に来ていた。眩しそうに、窓ごしの夜空を見上げている。
僕は少し目を逸らして、
「明かりは?」
「え?」
「部屋の明かり。点けないの?」
ぶっきらぼうに尋ねる僕に、リーレイは優しく微笑んで、
「――今は、これがいいの」
とだけ言った。
「暗いのは嫌?」
「…………」
そういうわけではない。
「ちゃんと葉月のこと見えるわよ?」
「……そうだね」
それだけ呟いて、僕は嘆息する。
リーレイはくすっ、と笑うと、ソファに腰をおろした。僕もそれに倣う。
さっきまで気付かなかったが、彼女は手に何かを携えていた。大事そうに両手で包んで、膝のうえに置く。
「……ブローチ?」
それは、何かの花を模した、飾りだった。
部屋が薄暗いので色までは判らなかったけれど、細長い葉っぱの形に彫られた金属に、針金のような細さで、幾重もの花びらが象られている。その中心に、鈍く光を反射する鉱石が嵌め込まれていた。
「妹とお揃いなの。でも、妹のは、もうなくなっちゃったんだけど」
「僕に見せたいものって、これ?」
「そうよ」
覗き込むように、リーレイが僕を見る。
「これが、守護者の力の源、魔力石」
「ま……りょく、せき?」
オウムのように反復する僕に、リーレイはこくりと頷く。
「何て言ったらいいのかしら。魔法使いみたいな力を、使えるようになるのよ。本物の魔法使いに会ったことがないから判らないけど……その、守護者の力を制御しやすくする……んん、上手く言えないわ」
「つまり……、媒介ってこと、かな」
「そう――なのかしら?」
リーレイは人差し指を顎にあてて首をひねった。
「でも、単なる道具とも違うの。これは、守護者にとっては、命と等しいものなのよ」
「命?」
壊したら死ぬとか、そういうものだろうか。ただのブローチにしか見えないのに。
「妹さんと、お揃いだって言ってたけど」
「そうなの。昔、家族で旅行に行ったときにお揃いで買ったの。可愛いでしょ?」
嬉しそうに笑うリーレイに当惑しながら、僕は訊いた。
「そんなものが魔力石でいいの……?」
言った途端、リーレイはぷぅと頬を膨らませて、
「ひどい! そんなものって言わないで! 大事な思い出の品なんだから」
「あ……と、ごめん」
僕は魔力石の基準が知りたかっただけなのに。
見た目は何の変哲もない、花のブローチに目を遣る。
「その……、買ったときから魔力石だったの?」
「違うわ。わたしが守護者になったときから、これはわたしの魔力石になったのよ」
「守護者に、なる……」
「そう、”なる”の」
僕はなんとなく、守護者というのは生まれつきそうなんだと思っていた。それは、たとえば、輪廻転生するような。でもどうやら違うらしい。
「役職というか……肩書、つくの?」
いまいちそういう捉え方しか出来ない。
困惑している僕を見て、リーレイは優しく微笑むと、
「それは、よく判らないけど。でも、拒否は出来ない」
「選ばれたら拒めない?」
「選ばれるのとも違うわね。確かに――選ばれはするんでしょうけど……そうね、『目覚める』って言えばいいかしら。本来のわたしのなかに、守護者としてのわたしがいるの」
それならやっぱり、生まれつきなのかもしれない。
「そして目覚めてすぐ、いきなり知る」
「……何を?」
「”守護者としての自分”を。――これから訪れる未来を」
……未来。
そういえば、リーレイは初めて会ったときに言っていた。
『わたしの未来を変えてくれる人を、待っていた』と。
それは……つまり……。
「未来は、決まっている?」
そう呟いてから、そんなわけはないと僕は思い直す。いくらなんでも、決まっている未来なんて――ないはずだ。
「それはとても……難しい質問ね」
やや苦笑めいた表情を浮かべて、リーレイは手のなかのブローチをもてあそんだ。
「未来はいつだって自由だとわたしは思ってるわ。でも、守護者じゃない人に、わたし達のことを理解してもらうのは、やっぱり難しいわね」
――何故だろう。
今。
拒絶された……気がした。
いや、拒絶、ではなくて、何か……壁が。
どくん、と心拍数が跳ね上がる。薄暗い部屋に、ふたりぶんの影が揺らめく。
「でも、わたし葉月に言ったわよ。最初に」
彼女の声が、遠く響く。
どんどん遠のいて――こんなに、近くにいるのに……。
――近く?
音だけが、離れて。離れて。
「守護者は、護りたいものを護る為にいるんだって」
「まもり、たいもの」
どうして。
僕の声まで。遠く聞こえるのだろう。
僕は、また。
この世界も、手放す気なのか?
リーレイはその深緑の瞳を少し伏せると、
「でも――……その、『護りたいものを護る』為の力で、誰かを傷つけてしまうの」
暗い部屋に、ふたつの影がゆらり。あるのは、不規則に踊る炎の揺らめきと、空から零れる星明かり。
悲しそうな彼女に、僕は何を言うでもなくただ黙したまま。くらくらと、何故か眩暈が止まらない。
彼女はそんな僕には気付かず、独り言のような言葉を続ける。僕が聞いていようがいまいが構わないのかもしれなかった。
「私はまだ力を制御出来なくて、だからいろんなものを失くしてしまった」
仕草も、視線も、声音さえも、悲痛な想いを滲ませているのに、それでも彼女は凛としていた。
最初に会ったときから変わらない、毅然とした姿。
「だから……だからね、もう目の前で、誰かが傷ついていくのは嫌なの」
……目の前で。
脳裏に、僕が倒れたときのリーレイの様子が思い浮かぶ。
白い両手を泥まみれにしながら、大地を握りしめていた。泣きそうな顔で。
ゆるりと、リーレイがこちらを見上げる。
春の木漏れ日のように微笑む彼女と、あのときの彼女の顔がゆっくり重なって、幻覚でも見ている気分だ。
「私の力で護れるものは、――護りたいものは、護るわ。そのための、守護者だもの」
それは冷たい大地を和らげる陽射しのように。
リーレイはとても綺麗に、微笑んだ。
「……葉月。聞いてる?」
「……聞いてるよ」
僕は口だけ動かして、そう応える。
制御がきかない力なのに。あのとき、目の前で倒れた僕に、力を使ってくれたのだろうか。何をされたかは判らないけれど、きっと使ったに違いない。
「大地の守護者」である不完全な力を。深く深く閉じこもったあの大地を……僕のために揺り動かした。
だから『大地が驚いて』、そして『共鳴』した……。
あの地震は、まさに共鳴だったんだ。
そう、確信すると同時に、記憶の襞(ひだ)から浮かび上がる、リーレイの台詞。
『妹とは一緒に住めない』
守護者の力のせいで? 上手く扱えなくて、危険だから?
いつの間にか眩暈は消えていた。その代わり、不思議な感情が僕の裡にこみ上げる。
じわじわと。僕の心を染め抜く。
……これは、何?
『何かを護るための力』がリーレイを独りにさせているというのに、彼女はそれでも「護りたい」と言う。
毅然と前を向いて、綺麗に笑う。
それはまるで、冷たく凍えた大地を溶かす、一輪の花のように。
溶けて。融けて。ほころぶ。
僕に降る春の雨。
ああ、今僕を動かしているのは何なのだろうか。
――僕は。
深い森のような彼女の瞳に映る、ささやかな星の瞬きを見ながら、僕はリーレイに言った。
「……もしも、もうどうしようもないときが来たら、僕を呼んで。……あいにく悪い奴をやっつけたりは出来ないけど、困ったときは、一緒に悩んで、悲しいときは一緒に泣くよ」
[8/20]
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