第5話
(優しく微笑まないで 名を呼ばないで)
(あなたの言葉が眩暈を呼び起こす) 右の頬が冷たい。いや、全身……というよりは、身体の右側半分が、冷たい。そして微かに土の匂い。しゃりしゃりとした霜の感触。
今度はどこだろう。ここはどんな世界なのか。謎の声はもう聞こえないけれど、思考するのがとても億劫だ。
それでも僕は起きなければならない気がして、重い瞼をなんとか開く。
最初に手が見えた。地面を握りこむように手をついているせいで土まみれだ。
僕は目だけを動かして、視線を上に――僕にとっては左に向ける。
長い亜麻色の髪。すっかり見慣れてしまった、彼女の顔。
リーレイが、冷たいであろう地べたに座り込んで僕を見ていた。僕より年上のはずのその顔は、今は憂いに歪んでいる。
一体僕はどのくらいこうして寝そべっていたのか、下にした肩が痛かった。
「……、」
呼ぼうとしたら、上手く声にならなくて、ただ呼気だけが空気を震わせた。
「……葉月?」
ひどく心配そうな声音でリーレイが僕の名前を呟く。
僕は困ってしまった。まだ上手く頭が回転しないうえに、こんなときどんな言葉を口にすればいいのか判らない。
「えっと……、おはよう」
言ってはみたけれど、地べたに寝転がったまま言う台詞でもないと思う。
とりあえず僕は、少し笑って、
「――!?」
心底慌てた。
「なっ……、なんで泣くの?」
「だって、葉月、ずっと起きないんだもの!」
リーレイの瞳から堰を切ったように溢れ出す、大粒の涙。
僕は半身を起こし、
「でも、もう起きたけど」
「死んじゃったかと思った!」
「いや、生きてるから……」
勝手に殺されても困る。
リーレイがまだ座り込んだままなので、仕方なく僕も冷たい土のうえに座っている。なんとなく、叱られている気分になった。
「わたし、葉月の名前をずっと呼んでたのよ!」
「……ごめん、聞こえなかった」
「いきなり倒れて、呼んでも返事がなくて、目も覚まさなくて、――わたし、本当に心配したんだからっ!」
「……ごめんなさい」
頭を下げると、土まみれのリーレイの手が目に入った。そういえば、どうしてこんなに汚れているんだろう。
心のなかで首をひねっていると、その手に雫がぱたりと落ちていった。
もうひとつ、ぱたりと雫。
雫の出所を辿って視線を上げる。急に静かになった彼女は、声を殺して泣いていた。
「……っ、わたし、護れないかと……思っ」
泣き顔を隠すように俯いたリーレイの肩が震えている。細い、肩だと思う。
その両肩を、亜麻色の髪がはらはら流れていき、彼女をいっそうちいさく見せていた。
「…………」
かける言葉が、見当たらない。
月並みに、「大丈夫だよ」とでも言えばいいのだろうか。何が大丈夫なのか判らないけれど。
それとも――、
「…………」
彼女の髪に触れそうなところまで伸ばした手を、僕は静かに戻す。
その代わり、まだ鳴咽を漏らす彼女が安定するまで根気よく待つことにした。
リーレイは僕のせいで泣いているわけだし。でもそれは、果たして僕が泣かせたのと同義なのだろうか。…………。
もしもこの場に第三者がいたら、きっと僕がリーレイを泣かせたように見えるんだろう。……他の人がいなくてよかった。
そう思って、息をついて顔を上げたら、リーレイの後ろ少し離れた場所に誰かがいて僕はぎょっとした。
なんだか、外に出てからというもの、いろいろと仰天してばかりいる気がする。
それは、長い金髪の、たぶんリーレイと同じ歳くらいの女性だった。おそらく、以前にも森で見かけた人物と同じだろう。
気温が低いというのに肌の露出が多く、そのうえ変な服を着ていた。変というか、布を何枚も重ねて纏っているような、どこかの映画にでも出ていそうなコスチュームだ。
僕とリーレイからは離れているけれど、それでも相手の表情が判る程度の距離しか空いていない。
いつからそこにいたのか、金髪の女性はただじっと僕を見ている。――そう、僕だけを。
正直、あまり気分は良くなかった。
何しろ、見られているというより、明らかに睨まれている。睥睨されていると言ってもいい。
見ず知らずの女の人に睨まれる覚えは、今のところないんだけれど。――ただひとつ、この状況を除いては。
――どのくらい、その女性と視線を交わしていただろうか。不意に、大地が蠢いた。微かな地鳴りが響く。
その瞬間、それまで俯いていたリーレイがびくんと肩を震わせた。
「だ、だめ……!」
――ぼこり。
平らだった地面が盛り上がる。またひとつ。更にひとつ。ざわざわと梢が鳴く。
鳴動を始める大地に、たまらずよろけて僕は手をついた。
一体何が。
問おうとして、涙で濡れたリーレイの顔と見合う。その瞳に浮かぶのは、まぎれもない怯えの色。
「――お願いやめて!」
悲鳴にも似たリーレイの懇願が響く。誰に向かってなのかは判らない。
それでも地鳴りは容赦なく僕達を揺さぶり、意志があるかのように弄ぶ。
リーレイは幼い子どもみたいに、両手で顔を覆ってかぶりを振った。
「痛ッ……!」
唐突に痛みを覚えて、僕は左目を手で押さえる。土埃でも入ったのだろうか。
けれどそれに気を取られたのはほんの一瞬で、とにかく僕はわけも判らないままに彼女の手を握っていた。
「――大丈夫だから」
あとになって思うと、何の根拠があってそんな台詞を言ったのか自分でも判らない。
ただそのときは、彼女を落ち着かせたくて、怖がらせたりなんてしたくなくて、僕に出来ることをしただけなのだと思う。
彼女の細い手を、いっそう力を込めて握る。
暗い深淵から響くような地鳴りのなか、触れ合えるほど近くにリーレイの深緑の瞳を見た。彼女が目を見開く。
そのとき、何故か地鳴りが止んだ。大地の隆起もない。静かな、時間。
束の間、僕と彼女は見つめ合い、やがて彼女は怖々と口を開いた。
「……葉月の瞳、片方だけ……、――金色に見えるわ」
「……え?」
そんなはずはない。
僕は一般的な日本人で、その日本人は黒髪黒目が標準装備だ。
いや、そんなことはともかく、生まれてこの方僕の瞳は黒だった。たとえ黒じゃなかったとしても、さすがに金色なんてことはない。
「……大丈夫なの? なにか混乱してるんじゃないの」
僕の問いかけにも、リーレイは放心したようにぼぅ、っとしたまま。
僕は眉をひそめて彼女の反応を待った。
リーレイは何度かぱちぱちと瞬いて、空いている右手でそっと僕の頬に触れた。
そして囁くように僕に告げる。
「こっちの目が……金色に見えたの」
彼女の指が触れているのは僕の左の頬。そっち側の目は、さっき――
痛みを、覚えた。
僕は内心ぎょっとしたが、すぐに思い直す。
あのときは目に土埃が入った。……それだけ。単なる偶然だ。
「今も、僕の目が、……金色に見える?」
「今は見えないわ。いつもの、黒い瞳よ」
そう答えた彼女の瞳も、いつもの輝きを取り戻し、僕はほっと安堵した。
僕はゆっくりとリーレイから離れる。
「きっと見間違いだよ。気にしないで」
まだまじまじと目のなかを覗きこまれているような気がして、たまらず目を伏せた。
しかしリーレイは納得いかないのか、どこかふんわりした声音で、
「そう……。でも光の加減とかで金色に見えたりするものかしら……?」
と、首を傾げているようだった。
「……」
僕は恐る恐る、左目の辺りに手を触れてみる。もちろん、なんの変化も感じない。
けれどそれはびっくりするほど冷たくて、まるで違うものを触っているような、――そう、自分の身体のなかに他人の部位が混ざっているような、不思議な違和感だった。
これは――僕の、目……で、あるはずだ。
間違いはない。間違いなんて、ない。
「……帰りましょうか」
見て、とリーレイはスカートの裾をつまんだ。そして苦笑いを浮かべる。
「わたし達、いっぱい汚れちゃったわね」
……確かに、地べたに座り込んだ僕達はそこかしこが土まみれだ。しかも冷たい。
僕はほんの少し口許を緩めて、「そうだね」と応えた。
先に立ち上がったのはリーレイで、つられるように僕も腰を上げる。
ふと思いたって辺りを見回せば、金髪の女性は姿を消したようで、どこにもいなかった。 あの人は一体、何がしたかったのだろう。それに――……。
僕は目の前のリーレイを見遣る。
さっきの、大地が蠢めくあの現象は?
それから。
僕は気を失う前に見た、親友の姿を思い浮かべる。
……その声を、僕は何故かとても懐かしく思う。まるで、未練が、あるように。
リーレイが歩き出す。でこぼこになった地面は少し歩きにくそうだった。
「あ、ちょっと……待って」
「なぁに?」
「いや……。手、を」
振り返るリーレイに、口ごもって僕は目線を落とした。
彼女の手を握ったままの、僕の右手。離すタイミングがつかめなくて、今もしっかり繋いでいる。
彼女はさほど頓着せずに、むしろきちんと握り返して、にっこり微笑んだ。
「迷子になったら困るでしょ?」
そういう問題じゃない。
あやうく口から出かかった台詞をどうにか飲み込んで、僕はリーレイと向き合った。
「大丈夫。迷子には、ならないから」
今日は「大丈夫」の大安売りだ。
繋いだ手を離そうとするも、リーレイがさらに力を込めてぎゅっと握るので、なかなか離せない。だからと言ってあまり乱暴にも扱えないし、僕はほとほと困って彼女を見た。
「……離して?」
「ダメよ」
思いがけずきっぱりと拒否されたことに僕は鼻白む。
リーレイは僕の手を握ったまま、自分の頬に手を添え、ふんわり笑みを浮かべた。きめの細かい、滑らかな肌の感触が僕の指に伝わる。
「だって、葉月の手、こんなに冷たいんだもの」
「じゃあ尚更、繋いでたら冷たいんじゃないの」
素っ気ない僕の台詞に、リーレイは拗ねたように口を尖らせて、
「そんなにわたしと手を繋ぐのは嫌?」
答えに窮するような質問を僕に浴びせた。
僕の視線はしばし虚空をさまよい、
「手を繋ぐ理由がないから」
「答えになってないわ! いい? 葉月、これは二択よ。嫌なの? 嫌じゃないの?」
詰め寄るリーレイから目を逸らし、観念して僕はぼそっと呟いた。
「………………嫌、ではないです」
「よろしい」
満足気に大きく頷くリーレイ。
僕はもはや諦めの境地で空を仰ぎ見る。水色の空は今日も変わらず、薄っぺらい。
美術室のドアは、何故かいつも鍵がかかっていない。少なくとも、東海林がこの教室に立ち寄った日は必ず開いていた。
放課後。
きっと今日も開いているだろうと思い、東海林は何の躊躇いもなくドアの引き手に手をかける。
がらり、と人気のない廊下に開閉音が響く。無人の美術室が視界に入る。
東海林はたびたびここに立ち寄るが、そういえば美術部員の姿を一度も目にしたことがなかった。幽霊部員ばかりなのかもしれない。
そんなとりとめのないことを考えて、東海林はおもむろにしゃがみこんだ。爪先のすぐ近くに、何かの境界線のごとく、廊下と美術室を隔てるレールがある。
そう、これは境界線だ。世界と世界を隔離する、境界線。
不意に、誰かの足音が聞こえた。
「あれ、東海林じゃん。何やってんのこんなとこで」
「よー池椋(いけぐら)。今俺はたそがれてんの」
振り仰いだ先にいたのは、同級の池椋。今年は別のクラスになったが、去年一昨年とクラスメイトだった男子だ。
「お前こそこんなとこで何やってんだよ」
「それがさー、運の悪いことに資料室まで使いっぱ」
池椋は大仰に溜め息をついて、両手に抱えたファイルを見せた。
「災難じゃん」
「そーだよ。早く帰りてぇのにさ」
ひとしきり愚痴をこぼすと、池椋はしゃがんだままの東海林を覗き込むように上半身を折り曲げ、
「んで、東海林はなんでこんなとこでたそがれてんのさ。失恋でもしたか?」
「あー、それは近い」
「え、まじで?」
「嘘嘘。冗談冗談」
「ちぇっ。なんだよ〜、期待して損した!」
ぶすくれる池椋を東海林はけらけらと笑い、そして急に真面目な顔つきになって、かつてのクラスメイトを見上げた。
にやりと、不敵な笑みを浮かべ、
「面白いこと教えてやろうか」
「? なにさ」
東海林は美術室の床の一点を指差す。
「ここから違う世界に行けたんだぜ」
[6/20]
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