第9話-2
東海林。君にまつわるもの、すべて。
北の扉で目にした光景も……そもそも東海林が僕に散々話しかけてきた、その理由すらも。
鍵ならこの手のひらに揃っている。すべての答えを僕は見ているし聞いているはずなんだ。あとは、正解の鍵穴へ嵌め込むだけ。
いつかあいつが言っていた、夢の内容にしてはやけに微細でやたら感情こもっていたそれを、僕は話半分で聞いていたんだ。茶化さないで聞いてくれてありがとうだなんて、らしくない真摯な表情まで僕に見せていたっけ。
あれは、お前の物語だったんだな。
神隠し――いや、召喚されてこの世界に来た、東海林篤季の物語。
お前が、本当のアースマスターだったのか?
「……ところで、いくつか聞きたいことがあるんだけど」
僕の唐突な質問に、メディテイトは訝りながらも答えてくれる気配を見せた。
東海林が語った物語には何があっただろう。確か軍人がいるとか言っていたような。北の扉でも僕は軍用車を見ている。
「……今この世界に、軍人は居る?」
答えはノーだった。
ならばあのとき見たきのこ雲は何だったのだろう。よく似た現象を起こす兵器を、僕は知っている気がする。しかしそれもない、とメディテイトは首を横に振った。
何かおかしい。東海林が来たのはこの世界じゃないのだろうか? ……そんなはずはない。違う。記憶を手繰り寄せるように探る。そうじゃない。召喚されたはず――
『北の扉が開くのは誰かが召喚されたとき』
それを僕に教えたのは彼女だ。そして、あの扉は普段『開かない』。開くこと自体が伝説に組み込まれてしまうほどに。
そうだ。僕は何を思い違いしていたんだろう。なら、つまり――、
「……今まで来た召喚者は――何人?」
数が、合わないんだ。
神隠しに遭った人数と、召喚された人間の数が。
「お前を入れて、『二人』。最初のひとりは今はもう伝説上の人物だ。……私は、会ったことがない。守護者が全員目覚めたから、召喚さえすれば新たに三人めが来るだろう。アースマスターとしては、二人めになる」
「……そう」
僕は極めて平静を装い、短く頷く。しかし頭のなかはめまぐるしいほど高速で回転していた。
思い出せ。東海林は僕に、何と言って神隠しの噂を伝えた?
『うちの学校には神隠しの噂がある』
『最初の神隠しに遭った生徒は行方不明』
そして東海林はこう言ったんだ。
「どうせ帰ってくるんだからちょっくら旅に出たとでも思えばいいのにな」
帰ってこなかった生徒がひとりいるにもかかわらず、東海林は「どうせ帰ってくる」と断言した。今思えば、周囲もそんな雰囲気だった。その根拠は何だ?
東海林が神隠し経験者だとして、行方不明ひとりに対して帰還ひとりではそれほどの根拠にはならない。
つまり……東海林より前に少なくともひとり、神隠しに遭いながらも帰還した生徒がいたはずだ。そうじゃなきゃおかしい。おかしいんだ……!
神隠しは僕より以前に三人。
召喚者は僕より以前にひとり。帰ってこなかった生徒が十中八九最初のアースマスターだろう。今となっては伝説にのみ語り継がれる人物。
そしてこれから、次の召喚者が現れる。伝説の再来。「三人め」の異世界人。
それは誰か?
最初の神隠しと僕を除けば候補はふたりだけ。消去法で考えれば簡単だ。
三人めがもし東海林であるなら――ここは東海林が語っていた通りの世界であるべきなんだ。けれど今のこの世界は、東海林の物語の世界とは微妙に齟齬がある。それに……それにあいつは一言も言っていなかった。
『守護者が何人もいる』なんて。
過去でもない、ごく近い未来でもない、あいつが来るのは――もっともっと、遠い未来だ。
そこまで至って、僕は思わず苦笑った。
東海林。「次に会うとき」ってお前は自信満々だったけど、一体何十年何百年僕を待たせる気だよ。仮に僕が死んでたらどうするつもりだったんだ。気付かない可能性だってあるじゃないか。僕はこんなに変わり果ててしまったんだから。
脳裏に東海林と初めて会話したときの第一声が蘇る。
久しぶり。そう言ったんだ。それまで話したことなんてなかったのに。久しぶり、と。
ふ、と軽く口許を緩めて僕は片手を払った。邪魔だった長い髪が、背中の翼が、いろんな飾りもろともかき消える。見た目だけは、今までと変わらない姿。やっぱりこの方が落ち着く。
見れば、メディテイトは僅かに驚愕していたようだった。改めて向き直る。金髪の守護者に、これだけは言っておかなければならない。
「……僕には、果たさなければならない約束があるんだ。未来がどうなろうと僕に支障はない。だからあなた達がこれからやろうとしている争いには、全然興味がない」
メディテイトが暗に匂わせていた、守護者を縛る運命を打ち砕こうとする為に動くつもりは全くなかった。何故なら僕はその運命ごと享受しているのだから。
それに、と僕は独白のような言葉を続けた。
「僕が待ち望んでいるのは……その『三人め』じゃないんだ」
僕よりずっとハマり役の、誰もが認めるヒーロー。僕だけのアースマスター。今度は僕が久しぶり、って言う番だね。
……でも、これでおあいこなのかな。
彼女と同じ。お前も全部判ってたんだろう? 僕がいつか、この世界へ来ると。
知らなかったのはやっぱり僕だけなんだ。平然と、君との日々を浪費していた、これはきっと罰。無知を罪だと思わないけれど、知る術も機会も手にしていてそれを怠るのは、それは、やはり罪なのだろう。だって僕は今こんなにも罪悪感にまみれているから。悔やんでいるから。
終わるわけないと思っていた。漫然と、明日も明後日も同じ毎日が存在すると信じて疑わなかったんだ。あの頃の僕はそれを欝陶しくも感じたりしたけれど、どこかで安心もしていたんだよ。
それくらい、そう思うくらいには、君といる日々は悪いものでもなかったから。
――取り戻す。何年何十年、何百年経っても。どんな形であろうとも。
せめて君と交わした約束くらいは。
「……お前は……、守護者が、守護者という存在が憎くないのか? そんな、身体まで作り変えられて――!」
メディテイトが髪を振り乱して叫ぶ。
「人にあるまじき力を無理矢理与えられて大事なものを奪われて、何が守護者だ! 何の為の守護者なんだ! 未来なんか描けるわけがないじゃない! 馬鹿げてる――お前もそう思うでしょう!? 違う!?」
「……馬鹿げてる、には同意するけど」
応えて、僕は肩をすくめた。
これまでの高飛車な態度はどこへやら、メディテイトは青い瞳に涙を滲ませて喚いた。感情が高ぶりすぎて自暴自棄になりかけてるのかもしれない。
天空の守護者はきっ、と僕を睨み上げ、
「なら何故抗おうとしないの!? 私には逃げているようにしか見えない、それはただの臆病者だッ!!」
「じゃああなたは」
「……私……っ、私は……!」
メディテイトの目が泳ぐ。僅かにたじろぐ。いつの間にか一人称が「我」から「私」になっている。
僕は冷淡に告げた。
「何も出来ずにいるなら、臆病者はそっちだ」
「――っ!」
今度こそメディテイトは愕然と目を見開いた。たおやかな四肢がわなわなと震え出す。
「……僕はね、やるべきことの為に守護者の力が必要なんだ。何をおいても『護りたいもの』があるんだよ。その為になら、多少身体が変わるくらいなんてことはない」
もともと僕の人生は空っぽだったんだ。
「……確かに、守護者なんて酷いものだとは思う。だけど僕はとうに受け入れているから。自分の意に反することは、しないよ」
彼女はきっと、受け入れたうえで向き合っていたのだろう。守護者という運命に。
でも、と僕は僅かに首を傾けた。
「……そうだな、喚ばれたら、行くかもしれないけど」
独白めいたその呟きにメディテイトは瞳を揺らした。
「喚ばれる? 誰に……」
まだ忘我の淵にいる守護者をまっすぐ見据え、僕は迷うことなく答える。
「――クロトクリン」
今この世界でただひとり、僕を喚べる者の名前を。
「ば……馬鹿を言わないで……」
へなへなと座り込むメディテイト。
「リーレイは死んだの……死んだのよ……! もういないのよッ! まだそんな夢見て――」
「混同しないで」
「え……?」
メディテイトが纏っていた居丈高な鎧はもはや機能しなくなったようだ。茫然と僕を見上げる守護者を守るのは、魔力石という銀色の鎧そのものだけ。それすら僕に止められた。
ぽつ、と水滴が髪を濡らす。
「……勘違いしないで……僕が言ったのは彼女じゃない。クロトクリン」
ぽつぽつぽつ。
天から降る冷たい雫。
「僕と契約を結んだ守護者だよ」
細かな水の粒子が、僕とメディテイトへ優しく舞い落ちる。
僕の髪へ、肩へ、足へ。それは緩やかに勢いを増し。しとやかに熱を奪う。
いつの間にか風は止み、木々も大地もしめやかに色を落として黙すのみ。それはまるで、目に映るものすべてが等しく喪に服したように、静かに静かに涙雨に濡れそぼる。
俯くメディテイトが僕に訊いた。
「悲しくないの……? お前はリーレイが死んで、悲しくないの?」
「……。訊いてどうするの、そんなこと」
「そんなこと? 『そんなこと』なの!? お前にとってのリーレイは!」
「……僕があなたと同じ悲しみ方をすれば満足? 涙を流せば悲しんでいる証拠になるの? 悲嘆に暮れるのは彼女でもあなたでもなく僕なのに、何故誰かに向けてそんなパフォーマンスをしなきゃいけないの」
「違う! そんなこと言ってない、私は……ッ!」
「本当に悲しむだけなら、他者は要らない。……あなたが欲しいのは、自分の為の慰めだ」
あくまでも淡々と言い放って、うちひしがれる守護者へ足を向けた。メディテイトがびくりと肩を震わせる。
何の反応もせず通りすぎた僕の背中にかかる、か細い声。
「もうひとつだけ……聞かせて」
「…………何」
「リーレイのこと……好きだった? 大切に、想っていた?」
少しの逡巡ののち、振り返らずに僕は答えた。
「彼女にも言ってないことを、あなたに先に言うわけにはいかないよ」
返ってきたのは鳴咽まじりの台詞。
「やっぱり私は、お前が嫌い。大嫌い」
「……そう」
同じ台詞を、彼女にも言われたっけ。
それきりメディテイトは話しかけてこなかった。
濡れて頬に張りついた髪を払い、色褪せた水色の空を見上げる。
どこまでも薄い天幕を突き破りそうなほど高く伸びる針葉樹の森。肌を刺す冷気。鳥すら鳴かない静かな湖畔。すべてが彼女と共に在ったもの。
彼女の世界でもあり僕の心象世界でもあり、メディテイトが生きる世界でもあり、遠い未来に東海林が救うであろう世界。そして、どこかの誰かが深く考えずに創ったいびつな箱庭。
どこからが夢でどこまでが現実かなんて、そんな境界線は必要なかったんだ。世界に告げるのは別れの言葉なんかじゃない。周も蝶もどちらも現実。だって僕はずっと見ていたのだから。聞こえていたのだから。この目で、この耳で、すべてを感じていたのだから。
君と過ごした日々や、あなたに会えたこの世界を、僕は夢になんかしたりしない。
たとえこの両手がもう空っぽなのだとしても、僕は空虚だなんて言うものか。繋ぎ止めるものは枷なんかじゃない。優しく満たす大切なもの。
あなたがくれたものも君がくれたものも、僕のなかで確かに根差してる。芽吹いてる。それを、僕は、ちゃんと、識っている。
捨てたりしない。もう二度と。
そうして僕はいくつもの種を抱いて春を待つんだ。
――花開く、始まりの季節を。
それこそが、僕が生きる――生きようとする現実。
後悔なら山ほどしてるしこれからもきっと散々するだろう。それがどんなに辛くても、苦しくても。
もう目は背けないと決めたから。
僕はこの世界で、生きていく。
僕達を繋ぐ、約束を果たす為に。
だから。
だからさよなら、世界たち。
そして、――ありがとう。
ぽつぽつぽつ。
始まりは桜の頃。そぼ降る春の雨に誘われて、僕の物語は廻り出した。
今は冷たい雨がまるで終劇の幕のように降りそそぐ。ただ粛々と。
けぶる視界の奥、濡れ続ける世界に春の陽射しを垣間見たような気がした。
* 少し肌寒い風に、腕のなかの淡い桃色の花が揺れる。真っ白なリボンでまとめられたその花束を落とさないように持ち替え、少女は寂れた石段を上った。
伸びるに任せた草木がそこらじゅうに根を張り枝を広げ、そこはすっかり荒れ果てていた。
それでも注意深く見れば、所々に何の変哲もない石塚が点在していることが判る。ここは集合墓地なのだ。
塚自体は何の装飾も施されていない、正真正銘ただの石塚だ。しかし少女にとっては紛れもなく姉の墓であり、……同時に、姉そのものでもある。
石段を上りきり、少女は顔をあげた。
「……え?」
いつもは誰もいないはずの、この墓地に、ゆらりと佇む人影がある。
黒に似た色の髪。揃いの色をした長い外套。はためく裾はまるで風に溶けるように霞む。
不意に、人影が振り向いた。
気がした。
視線が合ったと思った瞬間、まばたきした一瞬のうちにその姿はかき消えた。夜闇のような残像だけが目に焼き付く。
……夢、だったのだろうか?
こちらを向いたとき、見えてしまった左右色違いの瞳。見えるはずの距離でもないのに、何故か深く記憶に残るあの色。
少女はしばしその場で呆然として、
「……あっ」
何かに思い至ったかのように走り出した。
先刻まで謎の人物がいた場所にたどり着く。
そこは――、姉の、墓だ。
石塚にそっと置かれているのは、風に揺れる一輪の花。まだ開ききっていないその花弁は薄い緋色で、どちらかと言うと橙に近い。
今日は、命日でも何でもないのに。
少女は花開くように微笑んで、一輪花の横に自分が持ってきた花束を捧げた。
「あの人……誰? また会えるかな、おねえちゃん……」
少しだけ暖かさを帯びた風が、少女の鮮やかな金髪をさらっていった。
[13/20]
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