第8話-2 


 気付いてしまえば、なんてことはないことだった。僕に起きたすべての事象がそれを示唆していた。
 僕はアースマスターじゃない。それは紛れもない事実。ならば何故、この世界に――『神隠し』に遭ったのか。北の扉で目にした荒廃した世界と、東海林の謎めいた言葉。
 それから――リーレイ。
 彼女は何故僕に、アースマスターと守護者の話をしたのか。何故、魔力石を見せてまで僕に守護者という存在について教えてくれたのか。
 すべてがひとつとなって、僕にある答えを導かせる。
 形を変えた彼女の魔力石。それは約束の証。『僕』と『彼女』の……約束の、証。たとえ彼女がもういなくとも、無期限に永遠に果たされる、唯一無二の契約。
 だからあの魔力石は、『鏡』になった。
 あのとき呟いていた、彼女の台詞が記憶の奥底から浮上する。

『葉月……君はやっぱり、守護者なのね』

 ……知っていたなら、教えてくれたって良かったじゃないか。言われたところで、あの頃の僕が真面目に聞いたかどうかは保証出来ないけれど。
 それとも、……それとも。ほんの少しだけ、自惚れていいなら。あなたは、僕のことを、心配してくれていたの……?
 いろんなものを失くしたと、彼女は言っていた。 守護者の力のせいで、大好きな妹とも一緒に暮らせずに、こんな冷たい場所で独りで。
 同じことが僕の身にも起こるのかと、憂いていたのだろうか。……もう、今となっては知る由もないことだけど。
 それでも、彼女は僕に守護者の在り方を教えてくれた。どうすべきか教えてくれた。

『守護者は、護りたいものを護る為にいる』

 ねえ。僕は何も持っていないんだ。あなたのように、失って嘆くものはもう何ひとつ残ってないんだ。
 だから、恐怖はないよ。
 何も知らずにこの世界への扉を開いたときとは違う。
 僕は、何も持ってないと、捨てるものなど何もないと自分に嘯いて、騙し続けて、本当に大事なものを、やすやすと手放したあの頃。そしてそのことにすら気付かず、今度はあなたを失った。いとも簡単に。
 僕の両手は空っぽだ。ただ、零してしまった宝物を想って自責の念に囚われるだけ。そう、それだけ。今さら引き換えに失うものなど何もない。
 だから、迷いは、ないんだ。
 もう見ないふりはしないから。今まで見なかったぶんも、目を逸らしたぶんも取り返すほど。これから起こる未来も何もかも。
 すべてをこの目で識る力を。
 僕は欲する。

『汝に問う。我の名は……?』

 ――あなたとの約束は、果たします。いつになっても、いつまでかかっても。
 ……それしか出来なくて、ごめん。
 その為に。


 僕は僕を、受け入れる。


 うずくまったまま、唇にその名を乗せる。日本人には少し発音しづらいはずのその名前は、何故かとても心に馴染む。
 まだ誰も知らない僕の名前を、一陣の風が掬うようにさらっていった。





 ひやりと冷気が身体中を伝う。それは左目から、爪の先までくまなく。突然の低温に僕の身体は一気に収縮して、そして、
 ――瞬く間に沸騰した。

「……っ!」

 熱い。左目が熱い。たまらずおさえたはずの掌には不思議なことに熱が伝わらない。
 違う、熱いのは中だ。身体の、なか。内臓の、奥底。
 ――溶ける。
 どろり、と熔岩のような感触。灼熱の痛み。眼球が煮沸しているかのよう。それは次第に降下して、喉に溜まる。高熱の異物に喉が悲鳴をあげているのが判る。熱い。熱い熱い熱い!
 漸く吐き出した息は蒸気のごとき熱さで唇を灼いた。あまりの苦痛に僕は地面に倒れ伏す。冷たいはずの霜柱が一瞬にして形をなくしていく。土にまみれるのも構わず痛みと熱さに喘ぐ。
 放熱する喉の異物。泥のような、ゼリーのようなそれを、ごくん、と嚥下した。
 瞬間、身体中に激痛が走る。ばきんと、立て続けに響く、何かが折れる嫌な音。

「――っ!?」

 悲鳴すら声にならない。いっそ意識を手放した方が楽なんじゃないかと思い、でも考え直して、どうにか気を保つ。
 さっき決めたばかりじゃないか。目を、逸らさないと――。この痛みのすべてを僕はずっと覚えておくんだ。
 苦しくて息が詰まる。咳込む。神経が。筋肉が。容赦なく引き裂かれる。痛い。熱くて痛いのか痛いから熱いのかすら判別出来ない。絶えず襲いくる激痛。

「お前……っ、そうか、魔力石が――」

 メディテイトの台詞が耳をかすめる。微かな驚愕に彩られたその声音は珍しく険がない。
 何に、驚いているの……?
 荒い息で僅かに顔を持ち上げた。全身が怠くて鉛みたいに重い。気のせいだろうか、目に入る両腕から燻る煙に似た水蒸気が立ちのぼっている。見間違いだ、そんなこと、あるはずない……。
 金髪の守護者は愁眉を寄せて僕を見下ろしていた。今さら気遣い……のつもり?
 駄目だ、思考回路が完璧に錆びついている。
 ぼんやりと霞む視界は何故か普段より狭くて曖昧だ。どうも距離感がおかしい。高熱に冒される身体が水を欲して喘ぐ。すぐ目と鼻の先に広がる湖。大半が分厚い氷に覆われた、その水面を掴もうとして、右手が頼りなげに空を切った。あがくように手を伸ばすも、力尽きて水面を叩く。ぱしゃん、と水飛沫が踊り――
 氷が、一瞬にして融解した。
 一拍遅れて発生する大量の水蒸気。湿った風が居場所を求めて走り去る。おそらく生温いそれに頬をなぶられながら、なんとか上半身を起こす。とうに痛覚は麻痺してしまった。冷たいのか熱いのかも判らない。ただ息だけは荒くて、その呼吸音のせいか胸の鼓動も感じ取れない。
 湖面を覗き込む。せわしなく波打つそこには映しとられた色だけがただ散乱する。
 青光りする鋼線のような僕の髪がぱらぱらと肩から流れてまた水面に波紋を作った。長いその髪はさながらカーテンのよう。
 次第に視界が元の広さを取り戻す。

「…………」

 澄んだ硬質の音が耳元で、胸元で響く。まるで、重いビー玉を打ち鳴らしたような。
 まだ息は整わない。
 今までの暴威は何だったのかと思うほど、左目は静かに自らの役割を果たしていた。違和感なんてどこにも見つけられない。
 少しずつ戻ってきた感覚に、ふと馴染みのないものが加わる。
 ゆっくりと回復する思考。
 それに伴うように鎮まりゆく湖面。
 透き通ったその水鏡が鮮明に映し出す。


 最後の、守護者の姿を。       



        ****



「そういえばさぁ」

 夕暮れ時にひとり、家路をたどりながら東海林がおもむろに呟く。黄昏の名にふさわしく、すれ違う人影はどれも薄闇に溶けて正確に判別出来ない。鮮やかに咲き誇るつつじの垣根が歩道に沿って延々と続いていた。
 まるで無限にループする回廊のようだ、と東海林は何とはなしに思った。
 そのまま誰に聞かれるでもない独り言を続ける。

「俺、お前に夢の話したよな。未来のじゃなくて、寝て見るやつ」

 少しだけ夏の匂いを含んだ春風が、相槌を打つかのように垣根を揺らした。

「なんかさぁ、よくあるRPGみたいな変な世界で、 理由もなく襲撃されたり、神器探してあちこち行ったり、戦争に巻き込まれたりして……」

 訥々と語られるその声音はどこかうら寂しい響き。

「出会う奴らも変わった奴ばっかでさ。アリックスは口うるさいくせにお人好しだし、ライは小生意気なガキだし、えげつない軍人とかその子分とか……」

 そこで一瞬口をつぐみ、東海林は懐かしむように遠くを見て、

「無愛想でつっけんどんな守護者とかさ」

 諦めにも似た苦笑いを浮かべた。

「……夢の話じゃないんだ。本当は。お前に言っていいのか俺けっこう悩んだんだぜ。でもお前見てたらどうしても話したくなったんだ。バカにされても、信じてもらえなくても、……聞いてほしかったんだ」

 呻くように、懺悔するように、東海林はその名を呟く。

「――篁」

 もうこの世界には居ない親友の姿を思い浮かべる。
 何に対してもドライで、関心がなくて、いくら明るく話しかけても返ってくるのは大半が素っ気ない返事。来る日も来る日もつまらなさそうな顔して窓の向こうを眺めていた、彼。
 まるで、自分の存在する場所に何か違和感でもあるかのように。
 それほど違う世界に、異世界に行きたかったのか、その心中を知る術も機会も、東海林は失ってしまった。
 手持ち無沙汰に触れたつつじの花弁に指を滑らせながら、東海林はそこに居ない親友に向かって語りかけた。

「……約束、覚えてろよ。だってお前あのとき、」

 俺のこと、名前で呼んだんだぜ――
 朧げになりゆく記憶に、今となっては聞き慣れた、しかしもう聞くことのない声が明瞭に蘇る。
 それはあくまで淡々と、抑揚なく。何の気概すらもなく。
 呼びかけられた、教えていないはずの自分の名前。
 それきりその守護者は、使命は果たしたとでも言わんばかりに、東海林の名前を呼ぶことはなかった。
 あれきり。たった一度だけ。
 忘れたりしない。ずっと覚えている。
 夢と言うにはあまりにもリアルすぎる、大事なあの思い出と共に。



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