表裏一体(2nd)


この前芭蕉さんがもう一つの世界に飛んだとか言っていたが、正直半信半疑だ。
幽霊とかそういう非現実で不可思議なことは信じないタイプの僕にとって、それは芭蕉さんが創り出した妄想や夢物語にすぎないと感じていた。
…そうすれば芭蕉さんがあのキスマークを隠す口実を作ったということになってしまうわけだが…、…思い出すだけでイライラしてきたので考えるのをやめた。

現在僕は竹藪の中にいる。避暑になるかと思って来たものの、あまり効果が感じられなかった。
しかし長屋はここよりさらに暑いので、暫く留まることにした。
着物が汗で体に張り付いて気持ち悪い。だから夏は好きになれない。芭蕉さんは「夏は生命のエネルギーに溢れてるから好き!」だなんて言うけれど。


竹藪の音を聞きながら芭蕉さんのことを考えていたら、少し涼しくなっていた。太陽が傾いている。物思いに耽ると時間が経つのが早いとはこのことか。
芭蕉庵に寄ってから長屋に帰ろうと思って踵を返すと、少し先の方で誰かがあちらを向いて佇んでいた。
綺麗な黒髪に透けるような白い肌。白地で襟と帯を濃い藍色に染めた着物を纏う、男。
そう。その男は僕と全く同じ髪型で全く同じ着物を着ているのだ。
嫌な予感がした。芭蕉さんの前例があるからだ。
気付かれる前にこの場から立ち去った方が良いと第六感が働き、もう一度踵を返す。
すると突然今日一番の突風が竹藪を吹き抜けた。思わず僕は「うわっ」と声を上げてしまう。

刹那。

『すいません』
男の声がした。その声は僕の声。僕は喋っていない。ならばこの声は。
背筋が凍りついた。身動きが取れない。
足跡が聞こえる。さっきの男が近づいてきたのだ。
『少しお尋ねしたいのですが…』
肩を叩かれ、男が僕の顔を覗き込んできた。
『此処は何処ですか?』

それは僕と全く同じ顔をした男だった。


僕が目を見開いた瞬間、男の方が先に後ずさりした。
『あ、貴方は何者ですか!』
ひどく動転しているのか声が裏返っている。
僕は吃驚しすぎて逆に冷静になれた。
瓜二つの男の出現。僕は芭蕉さんが言っていたことを思い出した。
(もしやこれが…)

ある仮説を立てた僕は男に近づいた。男は再び後ずさりする。
構わず僕は男に尋ねた。
「…貴方も河合曽良、ですか?」
その質問を不審に思ったのか、男は顔を顰めつつも頷いた。
やはりそうか。
僕は男の腕を掴んだ。
『なっ!?何ですか、離しなさい!!』
「いいから、ちょっと来なさい」
僕は男を引きずるように竹藪から連れ出した。



「――というわけですよね、芭蕉さん」
芭蕉庵に僕が僕と同じ顔をした男を連れてきたときの芭蕉さんの第一声は悲鳴だった。あまりにも煩かったので断罪チョップをお見舞いして芭蕉さんを落ち着かせ、男に事情を説明して今に至る。

「曽良くんが二人…、考えただけでも恐ろしかったのにまさか現実になっちゃうとは…」
「どういう意味ですか、それ」
「ヒヒインごめんなさい!」
『…僕もまさかパラレルワールドがあるとは思いませんでした…』
「うん、私も行ったときは吃驚したよ〜」
…なんだかややこしいが、とにかくもう一人の僕はどこか女々しい。見ていて不愉快だ。しかし芭蕉さんはどうやら女々しい僕の方がいいらしい。
「それにしてもこっちの曽良くんは本当大人しくて可愛なぁ」
芭蕉さんが笑顔でもう一人の僕の頭を撫でると、そいつはエヘへ…と照れた表情を浮かべた。途端にイラッとする。
「こんなの僕じゃありません!!」
そう言って僕は芭蕉さんを此方に引き寄せ抱きしめた。
芭蕉さんは「えっ、えっ?」と戸惑いの声を漏らしていたが、僕は聞こえない振りをした。いくらもう一人の僕でも"此処"の芭蕉さんを取られたくはない。僕はどうせ独占欲の塊なのだ。


『…この世界の芭蕉さんは随分大人しいんですね』
ふともう一人の僕が呟いた。「は?」と僕と芭蕉さんは彼を見る。
「ど、どういうこと?」
芭蕉さんが彼に問うと、彼は少し頬を赤く染めて言った。
『…僕のいた世界の芭蕉さんはとても勇ましくて、気持ちが若々しかったんです。だから僕はよく芭蕉さんの、よ…夜のお相手をしてました』
僕は目を見開いた。
どうりで女々しいと思ったら、もう一人僕はまさかの女役だったのか。
僕が茫然としているのに対し、芭蕉さんは目を輝かせていた。
「じゃ、じゃあ君の世界では私が曽良くんより上なの!?」
『はい、芭蕉さんは僕の師匠ですし…、それに弟子は師匠の言うことは絶対聞かなきゃいけないでしょう?』
「そう!そうだよね!!ほれ見たことか!君がおかしいんだよ曽良くん!!」
「調子に乗るな!!」
「ばそば!」
さっきから何だかもう一人の僕にやられっぱなしで悔しくなった。取り敢えずギャーギャー煩い芭蕉さんを断罪する。
ハァと溜め息を洩らしてチラリともう一人の僕を見ると、なぜか彼は此方をジッと見ていた。
眉を顰めると、彼はハッとして目を逸らす。
やっぱりもう一人の僕は気持ち悪かった。

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