13

 怒ってしまった。自分でも驚いている。目覚めたばかりの病人に怒鳴るなど、なんてことをしてしまったのだろうかと名前は落ち込んでいた。しかも、走ってきた名前の勢いにアオイは呆気にとられていた。それを思い出してますます落ち込みは深くなる。
 善逸になにかされたわけではない、ただ謝られた。名前は元々情緒が不安定で、最近やっと安定してきたばかりだった。だが、桑島と獪岳の一件で再び不安定になったのかもしれない。だから大声をあげた。怒りが抑えつけられなかった。
 ……髪を鷲掴み、泣き喚く名前の姿をけらけらと喜んだ鬼の顔が忘れられず、負の感情を抑制させることで、その記憶をなんとか薄れさせようと努力してきた。だから、名前にとって善逸へぶつけてしまった怒りは本当に予想外だったのだ。感情を表に出した日から、ふとした時に感情が乱れるようになった。平穏な日常の中、涙が出てきそうになるようになった。不安定な状態にまた戻った名前は、アオイからしばらく倉庫の整理をしてほしいと頼まれる。アオイは名前の状態にいち早く気付き、名前が抱く気付かれたくない、しかし仕事はきちんとやりたいという思いを察し、自分で配分で仕事が可能な倉庫の整理を任せることにしたのだ。アオイの気遣いを名前は素直に受け取った。
 善逸とはあれ以来会っていない。怒鳴ったような人間が善逸の側にいたら、怖がるだろうと名前は一日のほとんどを倉庫で過ごすようになった。合わせる顔がないわけではない、ただアオイの想像より名前が整理整頓をして綺麗に並べられると心地良いという理由で、倉庫整理に凝り始めたのだ。

 早朝。
 日も昇らない内に目を覚ました名前はまた眠りにつく気分にもなれず、なほたちと共に寝起きしている部屋から抜け出した。すみ、なほ、きよの幼い少女三人組はこんな名前を気にかけ、良くしてくれる。アオイも、まだ本調子でないカナヲもそうだ。ここは居心地がいい、同性の子たちがいるからだろうか。もしもあの日、ここに来る選択をしていたら、今頃名前はどうなっていただろう。アオイたちと隊士の治療に一生懸命あたる光景とか、薬の匂いを纏いこの蝶屋敷で暮らす様を想像してみる。それもそれで辛いことも楽しいこともある毎日を送れたはずだが、名前はやはり桑島の屋敷に行った選択を間違いとも不幸とも思っていない。

「…………さむい」

 目を擦る。夜明け前だからか廊下はひんやりとした空気で満ちていた。寝巻姿だと人を――こんな早朝に出歩く人間もそんなにいないと思うが――不快にさせるかもしれないと上着を羽織ってきてよかった。名前は少しの間、蝶屋敷の廊下を歩いた。気分転換をすれば眠気が訪れるかと思ったのだ。しかし、眠そうにない。これではなほたちの元に戻っても無意味に布団の中で朝を待つだけだ。朝まで時間を潰そう。いつものように名前は倉庫の方に向かった。

 倉庫の中はぼんやりと薄暗い。が、行動出来ない暗さではなくて、助かったと名前は安堵する。入ってすぐに聳え立つ低い棚の横。そこがここで作業するようになった名前の定位置だ。定位置には名前が用意した座布団が大体置いてある。気を使いながらそこに座る。
 何も聞こえない。静かで、生き物の音がしない。……一人でいると、過去が名前を襲ってくる。家族を殺した仇は死んだ、仇を討ってくれた恩人も死んだ。藤本の手伝いが終わってしまったら、名前はどうしたらいいのだろう。頼れる親戚はいないし、かといって行く場所がないからといつまでも藤本の世話になるわけにはいかない。佐藤はいてもいいのよと言ってくれるだろうが……。
 かたん。音がした。すぐそこにある倉庫の扉の方からだ。名前は素早く立ち上がり、咄嗟に物陰へ身を隠した。誰だ、伺うようにして息を潜める。扉が開く。

「名前ちゃん、いる?あ、思っていたより暗い……」

 声が聞こえた。かつん、と無機質な音の後に、一歩ずつ踏みしめる足音。まさか、名前は入ってきた人へ対し、思い当たりのある名字を口にする。

「我妻さん?」
「あ、名前ちゃん。え、ど、どこ、どこにいるの」
「ここです」

 物陰から出る。やっぱり善逸だ。日も出ていないのに、罅が入ったままの身体でこんなところに何の用だというのだ。杖までついて、苦しそうな顔をして。ほっと名前の姿を見て、顔を解けさせる善逸の元に近寄った名前は首を傾げる。意識をしないと、顔を顰めてしまいそうで怖かった。

「なぜ、立ち歩いているんですか? 神崎さんから許可を出したとはきいていませんよ」
「いやあ、名前ちゃんの声が聞こえたから」
「声?」

 出した覚えがないし、善逸のいる患者たちの方には行っていないのだけれど。ひとまず疑問は置いておき、善逸を病室に戻そうとする名前に善逸がまってくれと頼む。

「どうされたんですか。許可がないのなら早く戻らないと」
「待って、待って!名前ちゃんと、話したくって……。お、怒っていたの、なんでかなって」
「なんで……」

 それは善逸が謝ったから。名前の心が不安定だったから。そんな理由で怒ったといっても、善逸は分からないままだ。動きを止め、躊躇う名前の様子に善逸は「話そっか」と言う。


「申し訳ありませんでした。我妻さんの目が覚めた直後に大声をあげて」
「うん、いいよ」
「いいよって。……そんな、すぐに許さなくていいんですよ」
「名前ちゃんが謝ってくれたからし、俺も気にしてないから」
「……あの時」
「うん」
「……我妻さん、ごめんって謝ってきたんです。寝言だと思います。でも、それをきいたら、何でかわからないんですけど、かっとなって……こんな……」
「あっそっか……あー……」

 二人並んで座布団に座る。名前は善逸をまともに見れない。自分の爪先をただ見つめている。善逸も名前の言葉をきいてからは視線をあちらこちらに彷徨わせる。善逸は自分が謝罪をしたという理由に心当たりがあった。

「名前ちゃん。あのさ、獪岳が」
「はい、知っています。桑島さんがおっしゃっていました」

 遮るように名前は善逸の問いに答える。名前の表情はいつもと変わらず、善逸は彼女の真意を読み取れない。
 善逸は掻い摘んで、自身の刀を振るったことと、謝罪の意味を話した。
 苦悩も痛みも言葉にすると素っ気なくなる、その素っ気なさを受け取る側は自分の経験からそれを想像しなくてはならない。しかし名前には、苦悩も痛みも刺してしまいたくなかった。彼女からは、いつももがき苦しみ、悲しんでいる音がしている。初めて会った日、そして今も。なんてことない顔を保ちながら、ずっと。名前を傷付けるのが恐ろしい。
 我妻善逸は、名字名前が好きだから。
 最後まで、善逸の話を静かにきいた名前はその静寂さをやはり保っていた。表面上は。善逸にはきこえる、名前の音が。

「……手紙、やっぱり桑島さん以外には返していなかったんですね、全くもう」
「ああ……名前ちゃんも出してたよね」
「はい、何度も。……意味がないと言ってしまったら、それはこちらにも当てはまります。我妻さんがそんな意図で言ったんじゃないとは分かっていますよ。……なにか、できることがあったんじゃないかと思ってしまいますよね。分かります」
「名前ちゃん」
「……わたしはですね、我妻さん。あなたが――」

 僅かに平静を保っていた名前の顔が歪む。

「……わたしが大声をあげたのはあなたが謝ったから、だと思います。いやだったんです。謝ってほしくなかった。本当に申し訳ありません、理由があやふやなまま怒ったりして。自分が情けありません。……。彼があなたになんて言ったのか何を考えていたのかわかりませんが、あなたが……」

 名前が言葉を探しながら紡いでいた声が止まる。初めて会った時のようによく喋るな、と善逸は思った。あの時には違って、手探りで感情がのっている。でも、今なら名前のことがわかる。よく喋るのは緊張しているからだ。長い時間を一緒に過ごしてきた故に、理解が出来るようになった。
 鳥が囀る声がきこえる。耳鳴り。もうすぐ夜が明ける。

「あなたが傷付くのがいや」

 瞳が感情で揺れている。俯いていた名前がやっと善逸の方へ顔を向けた。

「どうしてかは分からない、けど、あなたが傷付くのがいやで。でも、謝ったことに怒っておいて、あなたが傷付くのがいやだっていうのはおかしいですよね……。怒ったら、あなたは傷付いてしまいますし。その、自分がすごく傷付いているのに、わたしに謝ったのが許せなくて。あなたが、自分を蔑ろにするのがいやで……。そう、つまり、やっぱりあなたが傷付くのがいやだってことです。わ、わかりにくいですよね。ごめんなさい。急に……」

 名前の言葉が途切れる。

「わたし、おかしいんです。忘れようとしているのに、こんな。我妻さん。わたし」

 罅の入った腕を上げ、善逸は名前を自分の内側に招き入れた。全身につけられた罅が裂ける様な鋭い痛みを善逸の体に走る。

「あいだだだだ、痛い!痛っ!」
「ほら、やっぱり病室に戻った方がいいですって」

 傷付くのがいやだと言った名前の前で痛がるのはあまりにも心無いことであろうが、善逸はこうしたかった。名前は心配しているのか眉を下げている。近い。二人はお互いの呼吸が分かる程の距離にいた。

「ごめん、大丈夫、俺は大丈夫……。名前ちゃんは……、これからどうする?」
「……これから?蝶屋敷での仕事が終わったらですか?いきなりですね……」

 名前が考え込む。自分の行く末の話を善逸に尋ねられるとは思わなかったし、これからが自分にあるなんて考えてもいなかった。

「そうですね……、まだ未定です。一人で暮らすかもしれませんが、佐藤さんは反対すると思うので夜逃げします。一緒にいるのは佐藤さんのためになりませんから」
「よ、夜逃げ!? よくないよくないそれ。絶対危ないもの。俺には分かる。一人じゃ危ないから、お、俺と、暮らさない?」
「……暮らす?」
「そう!!」
「お静かに。それは……。……わたし、まだ、あなたに話していないことが、あるんですよ」
「それは俺にもあるって。それに名前ちゃんが話したくないなら話さなくていいよ。俺がきいてもいい話なら、ずっと待つし」
「……」
「名前ちゃんはさっき、おかしいって自分のことを言ってたよね、でもおかしくなんてない。俺だって名前ちゃんが傷付くのはいやだ」
「…………」
「もう、鬼はいないけど、俺は名前ちゃんを守ってあげたい。美味しいものを食べさせてあげたいし、何の心配もない毎日をおくってほしいんだ。名前ちゃんが、すきだから」
「……」

 名前は目を瞬かせ、善逸の瞳をじっと見つめる。
 すき。好き、結婚して欲しいというのは、冗談じゃなかったのか。名前は、自分にはもう何の望みもないと思っている。欲しいものもなければ、やりたいこともない。桑島の屋敷にいたのは恩人の温情で、蝶屋敷に来たのは恩返しだ。
 善逸の体温が、沈むことのない名前の記憶を刺激する。きっと善逸は名前を置いて逃げたりしない。やさしい人だから、名前が苦しんでいたら悲しむし、困っていたら助けてくれた。
まだ、好きという感情は分からないし、善逸と同じ気持ちを抱けるのかも未定だ。けれど、善逸と暮らすのは、一緒にいるのはそんなに悪い事じゃないと思えた。
──善逸と共にいる限り、ずっと名前は傷口を引っ掻かれて、痛みに苦しむかもしれない。それでも、だ。

「ふふ。考えておきますね」

 部屋が明るくなる。薄暗い倉庫に置いてある物、一つ一つがはっきり判別がつくようになっていく。
 二人を眩しい日の光が照らしてゆく。お互いの浮かべる表情が徐々にはっきりと見えて来る。名前がぎこちなく笑っている。善逸はその笑顔に目を奪われた。初めて名前が笑っているのを目にしたのだから、当然かもしれない。善逸のぽかんとした表情が、名前と同じように笑みを作る。

 夜が明けたのだ。




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