あの日の、あの瞳をその後、彼がする事は無かった。 「なんだかんだで、夏休みとなったわけだが」 ジョウロで庭に植えてある植物に水をやりながら、誰にもきかせるつもりのない独り言を呟く。 眩しい陽射しの中で熱中症にならないよう、日陰にいることを心掛けつつ、水やりを続ける。真上にある太陽を睨み付け、手の平で汗を拭う。 「あー暑いな」 夏の暑さは割と平気だけど、蚊とか蠅とか蝉とかが活発になって怖いし、食べ物は出しっ放しにするとすぐ痛む。…そこらへんは好きじゃない。今こうしている間にも、蚊が寄ってくる。もう片方に持った殺虫剤を噴射し、蚊を出来る限り遠ざけているが…きりがない。 早く家に入って、冷やし中華でも作ろう。 この季節は冷や麦、つけ麺など、冷たいものが美味しい。他の季節でも冷たいものを食べることは出来るが、春は冷たいものをとる気分にならない。かといって秋や冬は私的に論外である。どちらかと言えば、シチューや鍋ものを食べたい。湯気がもわもわとたつ、じっくり火で煮込んだ、身体を芯から温めるものを。…しまった、熱いものを想像したせいで暑くなってきた…。 ほう、と溜息をつく。 お父さんとお母さんが生きていれば、今頃こうして一人で何もかもやらなくていいのに。 今更不満などないけど、またにしみじみとそう思う。 水のなくなったジョウロを庭の隅に置く。 「さて」 昼食を作って食べよう。まだ十二時前だけど、お腹が空いている私には、ちょうどいい時間だ。 何がいいかな。さっき冷やし中華かなって思ったけど、やっぱりうどんも捨てがたい。 あ、そういえば、茄子にトマトもあった気がする。じゃあここは野菜炒め、とか。 悩む。 うーんと、家の中に戻りながら考える。薄いカーテンを閉めた所で、私は回って来た回覧板の存在を思い出した。 私の次は衛宮家である。…暇だし、今から行こ。 キャミソールに短パンの服装はまずいな。蚊に刺されるし、人目につきそう。 ……着替えてからいこう。 コンクリートから滲み出てくる熱がサンダルから伝わってきて、熱いような気がした。 年々暑くなってきているが、温暖化の影響だろうか。 てくてくと数分歩いていけば、衛宮家の門が見えてきた。 門は開いているので、伺うように玄関を覗く。 いつ見ても立派な家だ。 たしか武家屋敷を買い取って、リフォームしたんだっけ。…もうよく覚えていないが。 記憶も曖昧で、しかも実際に見たこともないからだと結論付ける。 玄関前まで来たところで、インターフォンを押す。 一回。 …足音も声も聞こえてこない。 もしやと二回目。 ……やはり足音と声は、聞こえてこない。 「留守かな」 二回鳴らしても出てこないとなると、留守か……昼寝? うーん、じゃあこの回覧板は、ポストに入れておこう。かこんとポストに回覧板を入れる。ポストからちょっとはみ出ているが、大丈夫か。 用事は済んだ。昼食を食べに家へ帰ろう。 首筋に伝う汗を手の甲で拭き、玄関に背を向けて歩き出す。 石造りの通路から発せられる熱を感じないよう、道を踏みしめる感覚は短い。 それでなくても、こんな暑い空間にいたくなくて、つい足早になる。 ただでさえ私は具合が悪くなりやすいのだから。 とん、と門を出る。 「――名前じゃないか」 と、そこに両手に買い物袋(エコバック)を持った衛宮士郎がいた。 夏らしい格好をした衛宮士郎は私を見るとにこりと笑って、どうかしたのかと聞いてきた。 なんか、視界がおかしいが、気のせいだろう。 「……あぁ、うん。回覧板を持ってきたんだけど、留守だったから…ポストに入れてきた帰り」 「そうか――って名前、顔色が悪いぞ」 「え?…そう?」 「あぁ……大丈夫か?」 気遣うように顔を近付けられる。 う。こまる、そんなに顔を近付けられると、とても困ってしまう。 どう、反応していいかわからない。 ああなんか、ぐらぐらする。 私の心境など知らず、衛宮士郎は確かめるためにか、じろじろ見つめている。 …もしも片手が空いていたならば、きっと私の額に触れていただろう。 何の躊躇いも、一切の下心もなく。 ――なんというか、本当にやりずらい。 「大丈夫だよ、身体の調子も気分も上々だし…多分光の角度のせいじゃない?」 「?ここに影はないぞ」 「うん…たしかに建物の影も、雲もないね…うん、つまり気のせいってことだよ」 「そんなことない、よかったら家に寄っていくか?一人で帰すのも心配だ」 「いやいや大丈夫大丈夫、家に帰るよ」 「……」 衛宮士郎には勝てなかったよ……。 そうだ、衛宮士郎という男は粘り強い人だった。どうしてうっかりど忘れしていた私。 なんでもないと言って、逃げてしまえばよかったのだ。 いや、逃げたとしてもきっと、すぐに追いかけてくるだろう。 何度目かの交戦に白旗を上げたのは私だった。負け、安心した笑みを浮かべる衛宮士郎に連れられて、リビングに今座らせてもらっている。 …落ち着いてみたら、少し眩暈とか頭痛がした、かも。 出された麦茶に口を付けつつ、「よかったら昼食も」と言ってきた衛宮士郎の後ろ姿を見つめてみる。 ぼんやりと。 すると唐突に衛宮士郎が振り返り、目と目が合う。 透き通る琥珀が細まる。 「うどんでいいか?」 「うん、申し訳ないね……昼食ご馳走になって…」 「気にしないでくれ。ただ俺が勝手にやったことだし」 …一人暮らしで倒れたら、とか考えたのか。 藤村先生と間桐さんがちょくちょく来てくれる衛宮士郎とは違い、私の家には遠慮か配慮からか、あまり今の保護者である親戚の人はこない。二日に一回の頻度で電話は頂くが。 共に住んでいないのには理由は色々あるが、それはおいといて。 皿に盛られたうどんの山を一皿、目の前に置かれる。もう一皿は向かいに。 「手伝うよ」 「いや、名前は休んでてくれ、すぐ済む」 衛宮士郎が真面目な表情で言い、台所へ行く。 心配しているのか、何もかもしてくれる衛宮士郎にいいようのない感情が湧いた。 …本当に申し訳ない。 つゆの入った器と、いつの間にかあった私用の箸が置かれる。 「ありがとう、このつゆ、手作り?」 「あぁ…具合はどうだ?」 「…うん、もう、大丈夫」 あんなに否定しといてなんだけど、素直に頷く。 すると、向かいに座った衛宮士郎は、安堵したように頷き返した。 「それはよかった」 「心配かけて、ごめんなさい。確かに私、具合が悪かったみたい」 「名前は自分の身体のことをよくわかっていないんだな…。身体が弱いんだから、体調管理はきちんとしなくちゃだめだぞ」 衛宮士郎に言われたくないことを言われる。お前がいうなっていうやつだ。 子どもを叱りつける感じの声色で、とくとくと説教される。 悪いと自分でもわかっているため、その説教を静かに受けた。 一通り、受けただろうという所で「………食べてもいい?」と伺いを立てた。 「ん、あぁすまん、長かったな―じゃあ、いただきます」 「いただきます………次から気を付けるよ、気付けばの話だけど」 「気付きなさい」 「あはは、うん、なるべくね」 曖昧に返事をした。 気のせいとか、なんでもないとか。異変があってもそれですませる癖が出来ているから仕方ない、というのは言い訳になるのだろうか。 ずるずるうどんを啜る。 うどんはこしがあって美味しいし、つゆはコクがあり、味わい深い。 うん、美味しい。 心の中で美味しいを連発していれば、衛宮士郎がなんでもないようにこちらを見ていた。 「そういえば、名前の爪、今日は色がついているな」 「………マニキュアのこと?」 「マニキュアか、いいなそれ。華やかで綺麗だ」 そう、衛宮士郎はやはり何でもないように言う。 手短に感謝を告げて、褒められた爪をちらりと見る。 淡い黄色。 たまたま目について、きまぐれに塗ったもの。 目立たないように薄く塗っていたんだけど……よく、気付いたなぁ。 5 |