只今



もう二度と恋はしたくない。
ストールに顔を埋めて流れる涙を隠くしたあの日。

「言い訳はあるのか?」
「いえ」
「なら、さっさと原稿持って来い。編集の仕事を何だと思ってやがる」
「作家と二人三脚で良い作品を送り出す事です」

編集の仕事には必ず付いて回る魔の締切。周期の違いはあれど締切が近付くに連れて荒んでいく私生活。
辛うじて息をしている状態になるのも恒例ならば、私の場合は編集長である土方さん直々のお説教も毎月恒例だったりする。
現在、土方さんのデスクに置かれた灰皿は眉間の皺と比例するかのように積み上げられている。

「それはあくまで一部の良い作家のみだ。編集の仕事は平気で締切を破る作家の首を絞めてでも原稿を書かせ、その原稿を奪い取る事だ。忘れんじゃねぇ」
「……でも」
「編集にそんな事させる作家が悪りぃに決まってんだろうが」
「……ですよね」
「だったらサッサと行って、何としても今日中に原稿を奪って来い」

誰、と個人名が上がらなかったのは優しさではない。寧ろ心理攻撃。
殺意を込めて首を絞めたところで永倉先生が原稿を書いてくれるならとうの昔にその手段は取っている。毎回締切を大幅に破り、それでも白紙の原稿を前に頭にタオルを巻き直して腕を組む担当作家を見る度に私の睡眠時間は確実に削られていく。

前担当から私に引き継がれてから年々悪化の経路を辿り、今となってはワースト一位の記録も目前。
担当である私の肌も荒れ、生きた屍と化して社に戻り、破壊攻撃抜群の朝日を浴びながらデスクに倒れ込む。そんな光景も毎月恒例。

「…土方さんが担当だったら」

誰の耳に入るでもない程の声量で、ほぼ無意識に呟いた独り言。

永倉先生のデビュー同時、担当をしていたのは編集長である土方さんだった。昔馴染みだとかで新人作家を担当していた敏腕編集長。
今では締切破りの常連である永倉先生も、その時は締切を守っていた。今思えば守らされていたの方が語弊はないのかもしれない。
その後、私が担当を引き継ぐようになって数年。
締切が守られた事は実に両手で数えられる程。


編集長デスクから踵を返して自分のデスクにあるバッグを手に、向かうは永倉先生のお宅。
原稿が白かったら、印刷所への言い訳にもバリエーションを用意しなければ。
この二日、碌に睡眠が取れていない脳内で繰り広げられるのは現実逃避が大半だった。仕事に対しての現実逃避に加えて、プライベートも同様に逃避したい現実が、今の私にある。ポジティブに考えれば仕事で忘れてしまえばいい。ネガティブに考えてしまえば、入稿が終われば待っているものは更なる現実逃避。

出る前にチェックした鏡には、有り得ない姿の自分が映っていて更に打撃を受る羽目になった。
毎月ながらに酷い有り様。
こんな姿を毎月のように晒しているなんて、女として見られていないのも当然だと思う。

「永倉先生のお宅に行ってきます」

デスクを離れると同時に一言置いて部署を後にする。
一瞬だけ視界に入った編集長の姿は、フィルターの短くなった煙草を灰皿に押し付けているところだった。

漆黒の髪。紫紺の双眸。端整な顔立ち。長い指先と大きな掌。
土方さんは知らない。どれだけ私が貴方に焦がれているかを。

つい先日、決死の覚悟を決めて想いを告げたのに、結果は呆気なく躱されてしまった。締切前の通常の姿で告げたかったのは私のエゴ。締め切りで余裕が無くなる前にと、退社時間を回った頃を狙って自販機の前で思い切って告げた。

黒いスーツの裾を掴んで、たった一言だけ。「好きです」精一杯な気持ちを。
なのに返って来た言葉は溜め息の後に背を向けて「これからは仕事とプライベートは分けろよ」たったそれだけ。落胆する間も無く向かえた締切によって、土方さんとの関係は何も変わらずに済んでいた。

ストールに顔を埋めて涙を流したあの日、もう恋なんてしない。仕事に生きようと在り来たりな常套句のおかげか否か、本当に仕事に生きてしまっている現在。

ふらふらと身を引き摺りながら休憩室の前を通り過ぎようとした時、背後から突然掴まれた腕。
咄嗟の事に思考力の低下した脳は指令を出せず、されるがままにその力の方向へ引寄せられた。




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