75 潜入
痩身で剃髪の男性が座敷に入りました。君菊の禿(かむろ)が伝えに来ると、千鶴が手を握り締めて頷いた。
「何かあれば私の名前をお使い下さいね。ご無理はなさらぬよう、くれぐれもお気をつけて」
心配そうに眉を寄せる君菊の気遣いに感謝しながら、千恵と千鶴はお座敷に向かった。
一礼して部屋に入ると、見るからに荒くれと分かる風体の者が数人、既に酒を飲んでいた。
そして上座には、少し目つきの鋭い上級武士らしい人が一人と……剃髪で初老の男性が居た。
千恵が千鶴の方を見ると、小刻みに手が震え、堪えるようにギュッと唇を引き結び、眦に涙が溜まっている。
「父様……」
声にこそ出さなかったが、動いた唇は確かにそう言っていた。あの人が……綱道さん!?
酒のお銚子を取る振りをして涙をそっと拭った千鶴を見て、もう一度鋼道を見ると……。
明らかにわざと目線を外していた。部屋に入ってきた二人を一瞥した後は、決してこちらを見ようともしない。
おかしい。何か……事情があるみたい。
二年半でどれほど成長しようと、着物と化粧で様子が違おうと、娘の千鶴を見抜けないわけがない。
千恵は上座に回ってお酌をするべきか、千鶴を落ち着ける為そばに居るべきか迷った。
するとその時、千鶴が立ち上がって上座に向かった。危ない事はしないで欲しいけれど、気持ちは分かる。
大丈夫かな? 千恵は固唾を呑んでその動向を見守った。千鶴は、綱道と武士の間に入り、酒を勧めていた。
「今日は皆さん賑やかどすなぁ。何の集まりどすか?」
千恵は、千鶴を気にしながらも、この会合の意図と男達の正体が知りたくて、そばの浪士に酌をした。
「ん? ああ、今日は打ち合わせだな。おめぇ見習いのわりに年増だが、訳アリか? もうじき金が入るんだ。
俺達の時代が来るんだよっ。ヒック、そうなりゃあんたを身請けだってしてやれる。どうだ? 志士様の妾にならねぇか?」
酒臭い息が近づき、思わず少し身を離した。千鶴を見ると、立ち上がって部屋を出る鋼道の後を付いて行っている。
よかった、上手く二人きりで話す算段をつけたみたい。ホッとしながらも、この男をどうしようかと悩んだ。
酒の酌をするのはいいが、やっぱりこの手の話を上手くかわせるほど、世慣れてはいなかい。
「お酒が切れたみたいやし、うち、もろてきまっさかい、ここで待っとくれやす」
少し座を離れようと、立ち上がった千恵の着物の裾から男の手が入り込み、思わず大声を上げた。
「きゃあっ! 何しはるんっ!! やめとくれやすっ!!」
その声にバンッと襖が開き、斎藤が座敷にズカズカと入り込むと、千恵の足に手を掛けた男の手首を押さえつけた。
「兄さん、見習いに手ぇ出すような不粋な真似は勘弁して下さい。お客さん、こいつは別の者に替えさせて貰います」
「いや、下っ端が酔った勢いでやった悪ふざけだよ。申し訳なかったね。お前らは飲んでいろ、私は所用を思い出した」
上座の男は立ち上がり部屋を出る際、斎藤を見て目を細め、ニヤリと笑った。……気付かれたか!?
だが、斎藤はひとまず千恵が無事控えの間に下がるまで付き添い、襖を閉めて安全を確保してから階下に向かった。
平助が……いない!?
居ないという事は伝令に走ったんだろう。伝令が必要という事は……雪村に何かあったのか!?
慌てて玄関に飛び出した斎藤は、千鶴を抱えて啖呵を切っている土方を見つけた。
屯所待機のはずの副長が何故?!
驚く斎藤と目の合った土方は、一瞬バツ悪そうな顔をしたが、すぐ副長の顔に戻り、指示を飛ばした。
「屯所の襲撃を企ててやがった。沖田と平助は屯所の警護に戻らせたから、原田と一緒に二階の奴らを捕縛しろっ!!」
「御意。副長と雪村は?」
「とりあえずこの成りじゃ帰せねぇ。奥に部屋があったな? そこにこいつを連れてく。早く行けっ!」
斎藤は走って二階に駆け上がると、既に座敷で暴れていた原田に加勢した。
刀は預けてある為文字通り殴り合いだが……特に一人を集中的に殴ったのは言うまでもない。
千恵に汚い手で触れた罰だ、とここぞとばかり仕返しをする斎藤に、原田はおかしくて笑っていた。
「ハハハ、どうやら斎藤のお気に召さない事があったみてぇだな。お前も運が悪かったと諦めろ」
「ああ、洗いざらい吐いてもらおうか。先に帰った男の素性と、お前らの企てをな」
斎藤は、前歯が欠けてやや貧相になった男に縄を掛けながら、主犯格を取り逃がした事を悔しく思った。
あの笑み……やはり俺に気付いていたか。
だが千恵の無事を優先した事に悔いはないし、襲撃計画は未然に防がれた。後は永倉達が聞きだすだろう。
斎藤と原田は数人の浪士を縛り上げて転がすと、汗を拭って一息ついた。
斎藤はスッキリした顔で男を見下ろし、それがまた原田のツボにはまったらしく、いつまでもクックッと笑っていた。
やがて屯所から来た井上達が、原田と共に捕縛した浪士達を連行すると、斎藤は千恵の待つ控えの間に戻った。
「大丈夫か? その……何もなかったか?」
「はじめさん、無事でよかった……でも手に血が! 私は大丈夫です。足を掴まれて驚いてしまって。
……あの、全然聞き出せなくてごめんなさい。あんなに張り切って乗り込んだのに」
千恵は斎藤の手についた血を拭いながら、大事な利き手に怪我がないのを確かめて、ホッとした。
……男の前歯をへし折った時に指の関節辺りを切った気がしたが、気のせいだったか。
斎藤は、乱闘で曖昧な記憶を横に押しやり、千恵に状況を説明した。
「いや、雪村が上手く聞き出してくれたようだ。屯所襲撃を企てていたらしい。
残念ながら主犯には逃げられたが、他は捕縛して左之と源さん達が連れ帰った。
雪村は、副長が奥の部屋に連れて行ったから安心しろ。千恵……こっちを向け」
斎藤は己の手を大事そうに擦る千恵に上を向かせると、赤い紅を引いた唇に自分のそれを重ねた。
千恵の舌を啜り上げ、唾を飲み、男の昂ぶりを腰に押し付けながら抱き締める。
……男は愚かだな。
寛容な態度で送り出し、任務は後方支援だと自負していたつもりだった。だが……今爆発しているのは独占欲だ。
舌で上あごを撫で擦り、胸元に縋る千恵の膝がカクンと折れると、腿の間に足を入れ腰を抱えて支えた。
唇を離すと上気した顔を間近に見つめ、再び唇をぶつけて舌を絡める。人気もないのに、俺の物だと鼓舞したかった。
「んっ……はぁ……」
継ぐ息が甘い上擦った声になって耳に届くと、ようやく唇を離して耳元に顔を寄せた。
「千恵、今夜はきっと一度で終われん。着替えたら……早く部屋に戻ろう。今すぐお前が欲しい」
自分の肩口に頭を預ける可愛い女に、甘い予告と吐息を残し、斎藤はそっと体を離して部屋の外に出た。
残された千恵は……何かをねだる自分の体を諌めながらも、斎藤の意外な妬きっぷりが少し嬉しかった。
帯を外すと息が楽になり、男装に慣れてしまっている事に苦笑しながら、返す着物を綺麗に畳む。
千鶴ちゃんはもう帰ったのかな? 土方さんがいるなら大丈夫か、任せちゃおう。
千姫が取った部屋に居るであろう千鶴を気にしつつも、部屋の外で待つ斎藤の為に急いで着替えた。
遠目には男二人が手を繋ぐ怪しい光景だったろうが……二人は気にせず、屯所まで寄り添って帰った。
いつもより少し早足の斎藤に、千恵は頬を染めながら付いて行った。
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