72 信念
三月中旬に近藤さんは伊東さん達より先に帰京した。どうやら広島では別行動だったらしい。
それを聞いた皆は、何か考え込んでいる風だった。伊東さんの勤王思考の強まりを、危ぶんでいるようだ。
でも、はじめさんは中庸を貫いていて、佐幕色の強い近藤派の中では、その変わらない所が特に信頼されていた。
近藤さんは留守中に起きた羅刹による傷害事件にひどく心を痛め、局長さんなのに何度も何度も頭を下げてくれた。
「近藤さんったら、もうやめて下さい。済んだ事だし私もほら、こんなに元気なんですから」
「しかし武士である我らが守るべき女子に、羅刹とはいえ新選組の隊士が刀創を負わせたんだ。
しかも君は斎藤君の細君でもある。腹を切って……と言ってももう相手は死んでいるしなぁ。
ならばここはひとつ、君に立派な守り刀でも授けるか! 脇差は外出用にして、普段は懐剣を差しておくといい」
「刀!? いえ、そんな物を持ってて万一人に向けるような事にでもなったら、怪我させちゃうじゃないですか!」
まさか近藤さんがくれる物を刃引きしてしまう訳にもいかない。どうしよう? 私ははじめさんに救難信号を送った。
「懐剣か……悪くないかもしれん。家事の間は脇差を外しているから、結局屯所内では丸腰だしな。
局長、なるべく短くて軽い物をお願い出来ますか? 千恵、大丈夫だ。急所に斬り込まなければ、懐剣では死なん」
……何が大丈夫なんですかっ! 受けちゃったし! サイズまで指定してるし!
はぁ、まあいいや。使わなければいい話だもんね。周りがそれで安心してくれるなら、受け取っとこう。
私は諦めて、刀談義に花を咲かせる近藤さんと夫をその場に残し、お勝手に向かった。
「……という訳で、屯所で懐剣を持ち歩く事になりそうです。はぁ、本当に過保護なんだから」
「ハハハ、心配なのは仕方ないさ、月宮君は美人さんだし、ここでは二度も危ない目に遭っているからね。
いいじゃないか、武士の妻らしい携帯品だ。といっても、君が使わないで済むようにするのが私達の役目だがね」
井上さんは気のいい笑顔で話を聞いてくれた。でも結局懐剣を持つのには賛成みたいだった。
「……山南君はもうこちらに出てこないと言っていたよ。気の毒だが、管理を一手に引き受けてるからね、仕方ない。
君に決して同じ目には遭わせない、申し訳なかった、と伝言を頼まれた」
「そんなっ! どうして山南さんばっかり!」
「すまないね。伊東さんの考えに賛同する者達との間に、少しずつ溝が出来てきているんだよ。
彼の生存が知られて例の秘密が漏れれば、近藤派はお終いだ。組と皆を守る為なんだ、許してくれないかい?」
……全ては新選組の為。近藤さんと幹部の皆の為。そう言われると、返す言葉がなかった。
いつか……また会えますよね? 待ってます。
離れの方に心の中でそんな言葉を贈り、井上さんに小さく頷いた。今は仕方がない、か。
私は炊いたお菜っ葉を小鉢に移しながら、優しすぎる人の不遇に胸を痛めた。
三月の下旬に戻った伊東さん達は、勉強会なるものを開催するようになった。
異国の事を学んで異国に対抗出来る力を得よう、という趣旨で開かれたその会合は、結構人気があるようだ。
どこで聞きつけたのか、本が好きなら貴女も一度勉強に来ないか、と誘われた。
変な事を口走ってぼろが出たら困るので、謝意を述べてやんわりとお断りした。
「残念ですねぇ、貴女は山南さんのお小姓でいらっしゃったから、才がおありだと思っているんですが。
斎藤君はどうですか? 貴方が学べば小姓さんにも教えてあげられますよ? 一度おいでなさい」
「参謀直々のお誘い、恐縮です。いずれ機を見てお伺い致します。有難うございます」
「ええ、私は貴方を高く買っていますからね。では、お待ちしています」
そう言うと、伊東さんは機嫌よさそうに去って行った。……悪い人ではないんだよね、きっと。
山南さんが隠遁する原因にもなったので、どうしても苦手意識が勝ってしまうけど、賢い人なのはよく分かる。
でも、自分の志を貫きたい、というより、どっちかというと流れや勝ち馬に乗りたい風に見えるのだ。
いつも情勢を伺ってどっちつかずの態度でいる、といった感じがして、近藤派の皆みたいに惹かれるものがない。
「はじめさんはこれからも中庸を貫くんですか?」
「政治思想的にはそうだな。大事なのは何を信じるかだ。俺は思想や主義より、人を信じたい。お前はどうだ?」
「私ですか? 私は……自分を信じます。事情とか流れは気にせず、その時持っている想いを優先します。
変わる想いもあれば、変わらない想いもあるんでしょうけど。
はじめさんが刀に命を賭けるのと同じで、私も自分の想いに人生を賭けてるんです。
好き勝手に生きてるって言われればそれまでですけど……。
クス、今もそうですよ? 近藤さんや幹部の皆さんが好きっていう気持ちを大事にしたい。
はじめさんを愛してるっていう気持ちが何より大事だからここに居るし、これからもついて行きます。
でないと、自分で自分を好きになれなくなっちゃうから。フフフ、これだけ決めとくと楽なんです。迷わないし」
斎藤は驚いた。こんなにもしっかりはっきりと考えを言う千恵に。揺るがない目に。そして、その中心に自分が居る事に。
「なら、俺が間違っている時はどうするつもりだ? それでもついて来るのか?」
「ん〜〜間違ってない? ってまず聞きます。それに、まず間違えないようにします。その為に一番近くに居るんだもの。
はじめさんはこれと決めたら真っ直ぐ進む人だけど、人の話に耳を貸さないっていうのとは違うから。
きっと私の話も聞いてくれるだろうし、その上で決めた道なら、どこにでもついて行きますよ?
間違ってたらやり直せばいいだけの話ですから。後悔に時間を割いてたら人生が勿体無いです」
一手を間違えれば命が終わる刀の世界とは対極の、その柔軟な考え方が新鮮だった。
これからの時代にふさわしい考え方だと思った。いや、さらにずっと先の時代から来たのだから当然と言えば当然だが。
「そうか。なら迷った時は相談すればいいな。決めるのが俺自身だとしても、きっとお前の意見は参考になる。
三歩下がってついてくる妻より、手を繋いだ先にお前の顔が見える方が、俺には向いているみたいだ」
関白ぶるつもりも尻に敷かれるつもりもない俺には、千恵みたいな妻がちょうどいい。そう思った。
いつの間にか俺の口元は緩み、千恵もそれに応えるように微笑んでいた。
ちょっと夫婦らしくなってきたな、そんな気がした。
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