61 初夜 (※15歳以下の方は飛ばして下さい)

斎藤と千恵はご馳走とお酒で疲れた胃を休めるため、夕餉は途中のうどん屋で軽く済ませた。

千姫が手配したという宿は京の街中にありながら客は少なく、行楽シーズンなのに静かだった。

「内風呂は一階の奥になります。この二階には他に客は入れておりませんので、どうぞゆっくりお寛ぎ下さい」

宿の主人はそう言うと、二人を二階奥の部屋に案内して、一階へと戻って行った。


二間あるうち手前の部屋に風呂敷を置くと、千恵は火鉢の鉄瓶でお茶を用意して斎藤に勧めた。

「有難う。酒のせいで喉が渇いていたから、美味いな。今日は、和やかで温かい祝宴だった」

「フフフ、まさか風間さんを呼んで結婚式を挙げるなんて思わなかったな。喧嘩せず大人しく飲んでたし」

「ああ、意外なほど普通だったな。もっと嫌々出席するかと思ったが。千恵……こっちに座れ」

机を挟んで向かい合いお茶を飲んでいたが、斎藤の言葉で横に行くと、優しく抱き寄せられる。

トクン と胸が弾む。恥ずかしくなって下を向いていると、頤を持ち上げられ、静かに口付けられた。

ただ合わせるだけの優しいキスなのに、胸が詰まるほど甘くて、千恵の唇はかすかに震えた。

そっと唇を離した斎藤は、千恵の肩をもう一度軽く抱き寄せると、耳元で囁いた。

「今日からは夫婦だ。俺の事は……斎藤さんではなく、名前で呼んで欲しい」

「さいと……はじめ、さん?」

耳に掛かる息にゾクッとして、低く甘い声が木霊のように脳に響いた。ドキドキして顔が見られない。

「もう一度、練習だ。ちゃんと呼んで欲しい」

「……はじめさん。あの、これでいい?」

「ああ、それでいい。さあ、千恵は先に風呂を使うといい。俺は鉄瓶に水を足して貰って来る」

斎藤は、言い慣れない呼び名を照れ臭そうに言う千恵に笑いながら、体を離すと立ち上がった。

荷解きを見られたくないだろうから、と先に部屋を出て、階段を下りる。

千恵の上擦った声が耳に心地よく残り、下の名で呼ばれた事が嬉しかった。

今まで平助達が羨ましかったとは、口が裂けても言えない。はじめさん、か。いいものだな。

斎藤は、今日から自分の名前が好きになりそうだ、と感じた。



千恵は夜着と下着を手拭いに包むと、階段をソロリと降りて風呂に向かった。

今日、風呂の後の時間を思うと、廊下で人にすれ違う事すら恥ずかしい。

足早に風呂場へ駆け込んで内側から錠をすると、跳ねる心臓を落ち着かせようと大きく深呼吸した。

着物を脱ぎ、頭から足のつま先まで丹念に洗った後、清潔で温かい湯に肩まで浸かり、自分の体を眺める。

どこも……変じゃないよね?

お湯はそんなに熱くないのに、千恵はのぼせたようにクラクラしながら、湯桶で目を瞑った。

「いつか全て委ねて欲しいと願っている。お前の、全てだ。いいか?」

初めて大人のキスをした日に彼の言った台詞が甦り、心臓の高鳴りが治まることはなかった。




部屋に戻ると斎藤の姿はなく、奥の部屋との襖を開けた。並んだ二組の布団。枕元には乱れ箱と炭の熾った火鉢。

火鉢には鉄瓶がかけられ、その横には水の入った桶と手拭いが置いてあった。

気恥ずかしいけど、部屋の暖かい空気が逃げないよう寝間に入って襖を閉め、布団の上で待つ事にした。

「はじめさん、はじめさん、はじめさん。フフ、なんか夫婦って感じがしてきたかも。はじめさん、かぁ」

言い慣れるまでくすぐったいな。なんて思いながら練習していたら、階段を上がる足音が聞こえた。

急にまた心拍が速まり、襖が開くまでが長く感じられた。落ち着くのは……無理みたい。


「おかえりなさい、あの――」

「ただいま。寒くないか?」

「少しだけ。あの、はじめさん……これから……末永く宜しくお願いします」

「ああ、こちらも宜しく頼む。名前で呼ばれると少し実感が湧いてきたな。いい夫になれるよう努めよう」

千恵の前に座った斎藤は、ぎこちなく挨拶する花嫁に軽く笑みながら、その手を取った。

「私も……いい奥さんになりたいです」

「そのままで充分だ。一緒に良い夫婦になれるよう努力しよう。千恵……愛している」

「私も。はじめさん、愛してます」

少し潤んだ瞳で見つめていると、斎藤は千恵の背を支えながら布団に横たえた。

瞳にはっきりと表れた男としての欲望に、少しだけ不安になりながらも、目が離せない。

「それじゃあおやすみ、と言って襖を閉めるのはもう無しだ。始めてもいいか?」

斎藤は千恵に悪戯っぽく笑いかけると、無垢な花嫁に軽く覆いかぶさった。

千恵は返事をする代わりに、少し体の力を抜いた。期待と不安と、愛しさと羞恥で、どうにかなりそうだった。


本当の夫婦になる為に。

落とされた最初の口付けは切ないほど甘く、官能的だった。




「綺麗だ」

夜着が取り払われ、熱い視線が体を這うように動き、千恵の耳元に気持ちのこもった賞賛が囁かれる。

その言い方があんまり優しいから、見ないで欲しいとは言えなくなってしまった。

はじめさんの唇が首筋から鎖骨、そして胸へと降りていくと、甘い疼きが急速にせり上がってくる。

「ん……んんっ」

手足の先まで走る快感に、我知らず勝手に声が漏れてしまう。自分の声なのに、初めて聞くその甘さに、より羞恥が湧く。

「はじめさん……」

心臓が爆発しそうで、うまく息が継げない。触れられる所が火傷したみたいに熱くて、全身から汗が噴出す。

自分が自分じゃないみたいで、内側から込み上げてくる熱をどうしていいか分からず、身を震わせる。

はじめさんの指先と唇が女の部分に触れ、言葉とは違う愛の伝え方を教えてくれていた。どんどん息が乱れていく。

「あ……ああっ!!」

湧き上がる感覚が怖くて、どうしようもなく恥ずかしくて、思わず身を捩って枕元の方へ逃れようとした。

誰も知らない、何も知らない体には刺激が強すぎて、悲しい訳でもないのに目尻に涙が溜まる。

はじめさんは顔を寄せてそっと頭を撫でながら、私の涙を拭ってくれた。

「心配ない。きちんと感じてもらえる方が俺も嬉しいし、お前もこの後が辛くない。……体の力を抜いてくれ」

声も手つきも優しいのに、目だけは切実に私を強く求めていて、情欲の炎が燃え盛っている。

女を愛する男の瞳。その視線に本能が怯え、なのに体は何かを待っている。心が……求めている。

私も愛されたい。貴方に求められたい。ちゃんと……はじめさんの奥さんになりたい。

自然にはじめさんの方へ手が伸びて、背中に腕を回すと消え入りそうな小さな声で囁いた。

「はじめさん……愛して?」


再び繰り返される愛撫。優しく、忍耐強く、はじめさんの手で火を点されていく体。今度は逃げなかった。

やがて……苦痛に眉を寄せる私を宥めるように小さなキスが何度も与えられ。

愛しているという言葉が幾度も耳に落ちてきた。



力の抜けた体をはじめさんに預け、ぼんやりと思った。

子供かと問われれば、違うと答えるだろう。大人かと自問しても、まだまだだと思う。

でも。今日私ははじめさんの妻になり、今夜彼の腕の中で女になった。それだけは確かだった。

昨日までと違う自分が嬉しくて、そして少しだけ寂しかった。




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