35 危機

境内に舞い散った桜の花びらもいつのまにか消え、新緑が美しい四月の下旬。

原田さん達と千鶴ちゃんを巡察に送り出した後、私は廊下を拭いた雑巾の濯ぎ水を庭木にやろうと、裏庭に回った。

水を撒き、桶を乾かそうと元来た道を戻ろうとした時、玉砂利を踏む足音が近づいてきた。

二人……誰だろう? 非番の隊士さんかな?

目を凝らし、足音の持ち主を見ると、確かに隊士さん達だろうがどちらも知らない顔だった。

なんとなく……嫌な感じがする。

少し胸騒ぎがして、軽く一礼すると足早に横を通り過ぎようとした。だが、それは叶わなかった。

足払いを掛けられ転倒し、桶を投げ出した。起き上がろうとする所を一人が馬乗りになり、もう一人が口を塞ぐ。

嫌だ! なに! やだっっ!!

怖くて泣きそうだが、とにかく無我夢中で暴れ、口を塞ぐ男の手に思いっきり噛み付く。

「ってぇっ!! このアマ、ざけんじゃねぇ、大人しくしろっ!!」

「誰かっ! 誰か助けてっ!!」

一瞬手が離れた隙に、大声で助けを求めた。お願い、気付いて! 誰か来てっ!!

咬まれた男に思いっきり横面を張り倒され、痛みで一瞬頭が真っ白になる。それでつい、動きを止めてしまった。

そんな隙を見逃すはずがない。再び口を塞がれ、袷に男の手が掛かった。グイッと引っ張られ、晒が露わになる。

いやぁあああっっ!!

渾身の力を込めて掴まれた腕を振りほどき、胴の上の男を突き飛ばしたのと同時に。もう一人の男を倒そうと見上げた。

が、胴に馬乗りになっていた男も、頭元に居て自分の口を塞いでいた男も。突然ドサリと倒れ伏した。

涙で滲む視界に、赤い色が見えた。慌てて袖で目元を拭い、瞬きをする。そこに居たのは――


「沖田……さんっ!! 沖田さん! 血が! なんで!?」


倒れている男二人には外傷はないのに、沖田さんの口元には血がついていた。

「大丈夫……ゴホッ、ゴホッ!」

自分は大丈夫だと言っているのか、私に尋ねているのか、分からなかったが。

私は震える手で袷を直しながら、懐の手拭いを差し出した。沖田さんはそれを取ると口元に当て、私から少し離れた。

咳は中々止まらなかったが、ようやく呼吸を整えると、じっと私の方を見る。

「あ、有難うございました!!」

深々とおじぎすると、高く結った髪が前に流れ、私はその色に目を奪われた。髪が……色が変わってる!?

さっきの瞬間。あの、渾身の力を込めた瞬間、きっと変異してしまったんだっ! どうしよう、どうしよう!?

動揺する私とは正反対に、沖田さんは何故か落ち着き払っている。懐から襷を取り出して一人の男を縛り、

もう一人を私の貸した手拭いで縛ると、手招きしてなぜか私を木陰へ呼び込んだ。

「こっちにおいで? ああ、でも君は日差しが大丈夫なのか。目は……ふぅん、綺麗な琥珀色になるんだ。

 髪も白じゃなくて、金茶色になるんだね。これって……ああ、戻ってきてる。へぇ、毛先から戻るんだ。

 残念、頭にも何か付いてたのに、見る前になくなっちゃった。ねぇ、千恵ちゃん、あれって角だったの?」

…………何……言ってるの? なんで……驚かないの?

まだ血の匂いのする口元は、倒れた男達のいる境内という光景に不釣合いなほど、優しく微笑んでいる。

「間に合ってよかった。結構走ったんだよ? はぁ、疲れた。ここって広すぎるよね」

「あの……本当に有難うございます。でも、どうして何も聞かないんですか? だって私――」

「見たまんまだよね? 髪と目の色が変わったのなら、この目で見たし、頭のは推測だけど……違った?」

私は呆然としながら、沖田さんを見上げた。驚きのあまり、言葉が出なかった。

なんで……驚かないの? 怖くないの? 気味悪くないの? …………鬼を知ってるの??

「クスクス、口が聞けなくなっちゃったか。大丈夫、二人とも峰打ちだから。安心して、殺してない。

 だってほら、片付けるの大変だし。歩いて貰わないと運ぶのは面倒だ。

 ああ、もう全部戻ったね。ここじゃなんだし、場所を移そう。部屋に行くから待ってて」

私は本当に口が聞けなくなったみたいに、コクコクと頷くとふらつく足取りのまま、私室に戻った。




「お待たせ、あいつらは山崎君に任せたから大丈夫だよ、はいお茶。喉渇いてない? 僕は乾いたから飲むよ」

沖田さんは私の前に湯呑みを置くと、自分の分を啜りながら胡坐をかいて座った。

「赤く腫れてた頬も治ってる。……やっぱり似てる。けど、全然違う。千恵ちゃんは……生まれつき?」

似てるって何とだろう。違うってどこが? 

聞きたい事は沢山あったが、とりあえず頷いた。間違ってはいなかったから。

でも、私を見つめる沖田さんの顔が一瞬真剣になり、瞳の奥を見透かすようにじっと見つめてきた。

「何も……欲しくない? 口元に血が付いてるけど大丈夫?」

「いえ、別に……。たぶんそれ、口を塞がれて噛み付いたせいです。……ごめんなさい。

 でもそうしないと、来て貰えませんでしたよね? あの、ちょっと失礼します」

私は文机の上に畳んであった手拭いを取ると、お茶で少し濡らして口元を拭いた。赤い色が滲む。

そういえば、沖田さんの口元にも血が付いていた。だから手拭いを貸したんだ。

私は顔を上げると、そのことについて聞こうと口を開きかけた。でも……言えなかった。

ううん、沖田さんの目が言わせなかった。そっちが正解。私の頭に、一つの言葉が過ぎった。

……喀血。そう、あれは、咳と一緒に出ていた。血が出る咳といえば。…………結核?

ほかにも色々あるんだろうが、あいにく医学にも詳しくないので、喀血と咳といえば結核ぐらいしか知らなかった。

私が不安げに沖田さんの口元を見ていたからだろう。彼は部屋の隅に移動して、距離をとって座り直した。

「あのぅ……大丈夫ですか? 大丈夫じゃないんでしょうけど、お医者様とか、薬とかいいんですか?」

「はぁ、やっぱりばれたか。そうだね、まあそのうち。今は忙しいから、もう少し落ち着いてからかな。

 ……僕は言わない。だから、君も言わないで? おあいこってことでどう?」

「沖田さん!? でもちゃんと治さないと! ……あ……治らない、の?」

「いやだな、なんのこと? 僕は見てないし、君も見てない。だから分からない……ハハハ」

少し困ったような顔と、乾いた笑い声。無理してるのに、そう悟らせたくなさそうな態度だった。

私は沖田さんに近づくと、目の前に座った。驚いたような顔をしているけど、瞳の不安は隠せていない。

安心させてあげたい。予防接種とかどう説明していいか分からないけど、大丈夫だと伝えてあげたかった。

「沖田さん、私には移りませんから。だから離れなくて大丈夫ですよ? ……そばに居ていいんです」

「千恵ちゃん!? ……本当に?」

「ええ、残念ながら未来の人のみ、ですけど。生まれてすぐに、そういう処置をするんです、だから大丈夫!」

「そっか……よかった。移したらはじめ君に殺されるところだ。じゃあ一つだけ聞いていい?

 君のは薬? 遺伝?」

「薬?? なんですか? あの、私なら……遺伝です。でも、斎藤さんに話すまで待って貰えますか?

 斎藤さんが受け止めてくれたら……沖田さんにもきちんと話します。でも人には話さないでくれませんか?」

「うん、分かってる。さっきも言ったよね。おあいこだって。誰にだって秘密はある」

「ありがとうございます! じゃあ、私も誰にも言いません。言いませんけど、食事はちゃんと摂って下さいね?」

「ハハ、厳しいな。千恵ちゃん、旦那さんを尻に敷く奥さんになりそうだね。はじめ君なら喜んで敷かれそうだけど」

「なっ!? ……はぁ、もう知りません! なんてね。嘘です。本当に今日は……有難うございました」

行われかけた暴力。防がれた暴行。間一髪逃れられた災難を思い、今頃になってまた体が震えた。

沖田さんは手を伸ばし、少しだけ躊躇った後、私の頭を撫でてくれた。そっと壊れ物に触れるように。

「本当ははじめ君の仕事だけど、いないからね。代理。頭を撫でても妬くかな? まぁいいや、今だけ特別って事にしとこう」

出来るだけ明るく。出来る限り優しく。言葉にも態度にも、その表情にも思いやりが溢れていた。

じんわりと温かくなった心が手足まで血を通わせ、震えていた体が落ち着いた。

沖田さんも、移らないから大丈夫! と私が言った後は、瞳から不安の色が消えていた。

誰にも近づけないというのは、きっと想像以上に辛いはずだ。

この時代の医学なんて分からないけれど、私は出来るだけ力になろう、と心に決めた。

沖田さんは私が落ち着いたのを見計らって、何もなかったかのように部屋を出て行った。




夕餉の席では千鶴ちゃんに抱きつかれ、原田さんはやっぱり少し迷った後、私の頭を軽く撫でた。

原田さんは、斎藤の代わりだ、と言って苦笑した。いつの間にか、唇だけじゃなく頭も斎藤さんの物になっていたみたいだ。

永倉さんは、お前もいいとこあんじゃねぇか! と沖田さんの背中を強く叩き、沖田さんは嫌そうに眉を顰めた。

私の見ていない所で井上さんが険しい顔で近藤さんと話し合い、行われた詮議の結果は知らされなかった。

後日、あの二人はどうなったかと聞いても、大丈夫だと笑って肩を叩く近藤さんに、それ以上は聞けなかった。

ただ、この恐ろしい一件以降、あの二人の姿を見ることはなかった。

戻ってきた斎藤さんがどうだったか。その話はまた後日。

私はこの日の晩、布団の中で小さく口を動かして、予行演習をした。斎藤さんに話す日に向けて。




実は私、鬼なんです。



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