33 出立
三月下旬。土方と伊東に同行して江戸に行く事になった斎藤は、早朝部屋の外に人の気配を感じて襖を開けた。
「おはようございます、斎藤さん」
「ああ、おはよう。まだ暗いのにもう起きていたのか」
斎藤は不思議だった。特に何か訓練した風でもないのに、本当に気配に敏い。突然襖が開いたのに驚いた様子もなかった。
これが雪村なら、分かりやすく身を仰け反らせるだろう。だが、今は置いておき、千恵を中に入れた。
「朝早くにごめんなさい。出立前に渡しておきたくって。あの……これ、お守りです。
自分で縫ったからちょっと恥ずかしいんだけど。無事帰って来てくれますようにって、沢山お祈りしときました」
小さな手縫いのお守りは、きっと幾日も懐で温めたのだろう。ふわりと彼女の香りがした。
これは……間違いなく、戻って来たくなるな。
「手作りか。ありがとう、大事にする」
お守りを懐に仕舞いそっと抱き寄せると、自分を見上げている瞳を覗き込む。
案の定、口元は微かに微笑んでいるのに、瞳の奥には寂しさが見え隠れしていた。分かりやすいな。
「大丈夫だ」
少し強めに抱き締めると、そのまま顎に手をかけ、口付けを落とした。重ねるだけの、優しい口付け。
ここで深い口付けでもしようものなら、きっと行くのが嫌になってしまうだろう。
もう少しだけ、と離れがたい自分の唇を説得するかのように背を伸ばすと、千恵の髪を撫でた。
これも段々癖のようになってきたな。
柔らかい髪は触り心地が良く、つい手が伸びてしまう。一度触れるとずっと触っていたくなる。
「土産は何がいい? 女子の好みは分からんが、欲しい物があれば見繕ってこよう」
「斎藤さんがいいです。斎藤さんの無事が、一番のお土産だから。他は何にもいらない」
「っ!」
こんな風に言われて落ちない男はいないだろう。仕方ない、お前が可愛いのがいけない。
斎藤の健気な自制心はパチンと弾け、千恵の顔を両手のひらで包み込むと、今度はもう止められなかった。
さっきの口付けで少し湿り気を帯びた唇に舌を這わせ、口を開くよう促す。
少し開いたところに潜り込み、下で歯列を押し上げもっと奥へ入り込む。
肩口に千恵の手がキュッと縋りつくのを感じながら、優しく深く、口腔を彷徨い彼女の舌を呼ぶ。
少し遠慮がちに差し出されたそれに己の舌を絡め、啜るように可愛がると、千恵の膝が震えるのが分かった。
感じてくれている。
同じように高まってくれている事が嬉しく、息を継ぎながら二度、三度と唇で悦びを与え合った。
最後には千恵の膝がカクンと折れたので、慌てて腰を支え、息を整えた。上気した頬と潤んだ瞳が色っぽい。
「一つ頼みがある。いいか?」
「は……い?」
「この唇は俺の物にしてくれ。他の誰にも……触れさせないと約束してくれないか?」
「あ……あっ、当たり前です! こんなこと、他の人に……無理です!」
「ククッ、余り可愛らしいことを言ってると、本当に出立できなくなる。だが……ありがとう」
斎藤は千恵の赤い唇にそっと親指を這わせると、ゆっくり体を離した。
「それじゃあ、後で」
「はい、今日は朝餉の当番なんで、楽しみにしてて下さい」
斎藤が頷くと、千恵は小さく手を振って部屋に戻って行った。
その後ろ姿が消えると、途端に部屋がガランと広く、もの寂しく感じられた。温度まで下がったような気がする。
見送る方が辛いものなんだな。
殺風景な部屋を見渡し、溜息をついた。同じ建屋に住むのにこうだ、江戸はもっと遠い。
慰めを見出すようにお守りを着物の上から押さえ、気持ちを落ち着けると、障子窓を少し開け風を通した。
開きかけの桜の蕾を眺め、一緒に花見に行けなくなった事を残念に思いながら、春の夜明けを待った。
膳の揃った板間に行くと、沖田が先に来ていた。自分より早いのは珍しい。稽古の当番だったか? と見やると、
「おはよう、はじめ君。お別れの挨拶は済ませたみたいだね? 千恵ちゃんの歩幅は小さいから分かりやすいんだ」
ニヤニヤ笑いながら言う総司に、返す言葉が無かった。なるほど、廊下の気配で目覚めたのか。
きっとこの男のことだ、隣室で笑いを堪えていたんだろう。まったく、どこまでも子供っぽい。
部屋を決める時、いびきのうるさい新八から離れて喜んだが、今度は悪戯小僧の隣りだ。
戻ったら彼女に用心するよう言わねば、と考えながら席に着いた。
やがて皆が揃い、よそわれたご飯につい笑みを零す。今朝は麦飯か、昨日は粟が入っていたな。
貧乏臭いと最初は不評だったが、白米では脚気にかかります! という千恵の一喝で雑穀を混ぜるようになった。
味が落ちたと文句が出ないよう少量の麦から始め、だんだん配分を増やしているようだ。
気付いたらもうその味に慣れており、きっと江戸ではこの少し固めの飯が恋しくなるだろう、と思った。
豆腐の味噌汁は、恐らく自分の好物を用意してくれたんだろう。自分の碗だけ豆腐が多いようにも思う。
斎藤は秘かなえこひいきに口元を緩め、膳の思いやりを味わった。
「では、行ってくる」
「行ってらっしゃい、お気をつけて」
他の面々と共に見送る千恵に軽い挨拶をして別れると、門を出た。
さっさと行ってさっさと帰ろう。
一行の先頭を歩く斎藤は、お守りの入った懐を意識しながら、その歩みを速めた。
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