32 予約
「斎藤さんの部屋でお話してるから、何かあったら呼んでね。」
小料理屋で夕餉を済ませた後、私室に入ろうとする千鶴にそう声を掛けると、千恵は斎藤の後について彼の部屋に入った。
真新しい畳の香りが清々しい。襖も障子も新調され、落ち着いた佇まいの部屋に行灯が点された。
夕餉より後に部屋に呼ばれる事などないので、何か話があるのかな? と思った。
「明日からは巡察経路も変わるが、今までよりはかなり楽だな。やはり西本願寺は立地がいい」
「確かに壬生はちょっと外れた所にありますもんね。ここは鍛錬も屋内で出来るから、雨の日も助かりますよね」
「ああ、今までは壬生寺の境内を借りてたからな。ところで部屋に呼んだのは、入隊志願者の選定に江戸へ行くからだ。
今月終わり頃出立して、戻るのは恐らく早くても五月だろう。副長と参謀にご同行する予定だ」
「えっ? 江戸に行くの!? ……寂しいな、なんて言ったら……困るよね?」
「いや、俺も寂しいからおあいこだ。留守の間は左之を頼るといい、さっき頼んでおいた。
新参隊士が急増した上、総長の小姓という肩書きもない今、お前を一人にはしたくないんだがな。
仕方ない、仕事だ。剣戟指南役としてと、旅慣れている事で選ばれたんだろう。伊東さんの推薦らしい」
「フフフ、斎藤さん強いから。私なら大丈夫ですよ? 家事は幹部の方の分だけだから、たいした量じゃないし」
いや、そういう事ではないのだが……。新参隊士の中には、まだ隊規の厳しさを分かっていない者もいる。
加えて男所帯。彼女は今、中途半端な立場なのだ。おかしな考えを行動に移す輩がいないとも限らない。
少しは警戒させた方がいいのだろうか?
斎藤は腰を上げると、軽く千恵の肩を押した。千恵は驚いた顔をしながらも、なんの抵抗もなく転がった。
「斎藤さん?」
仰向けに横たわった千恵の両肩を押さえ、顔を覗き込む。瞳には困惑と……羞恥の色があった。
ズクリと体の芯が熱くなる。これは……教えるためだ。自分に言い訳するように、彼女の唇に顔を寄せた。
そっと優しく重ねると、かすかに唇が開き吐息が漏れる。少しだけ舌を探るように差し込むと、
ピクンと体を震わせ……おずおずと口を開いて斎藤の舌を受け入れた。
少し熱い口腔に入り込むと、甘美な快感が体を駆け巡り、もっと欲しくなる。
歯列の奥に舌を滑り込ませ、千恵の舌を撫でてやると、腕の中で堪えるように斎藤の襟にしがみついた。
「んっ……ん……」
千恵の甘い声が脳幹に響き、息を継ぐのも惜しんで舌で口の中を愛撫し続ける。
体温の高まった千恵の袷から、優しく甘い香りが立ち上り、鼻腔から肺に至るまで千恵で満たされていく。
そうしている内、痺れるような快感が下腹の辺りを突き抜け、はっと我に返った。
目を開けると、頬を紅潮させ息を乱した千恵がしどけなく横たわっている。瞳に微かな情欲の色を点して。
斎藤は彼女をそっと抱き起こし、労わるようにその背中を軽く擦った。
「すまん、怖がらせたか?」
「ううん、大丈夫。あの……ちょっと驚いたけど。斎藤さんだから……平気」
「あまり可愛いことを言うな、自制が効かなくなったらどうする? ……フッ、冗談だ」
斎藤は胸元に千恵の頭をもたせ掛け、髪をそっと撫でた。滑らかな触り心地が気持ちよく、昂ぶりが静まっていく。
「ここはお前と千鶴を除いて男ばかりだ。そんな中に残して行く俺が心配なのは当然だろう?
なのにお前は、全然見当違いな方向で大丈夫だと言うもんだから……男は危険だと教えたかったんだ、最初は」
「最初は?」
「ああ、だが少し……いや、かなり度を越したのは、よかったからだ。その……お前との口付けが」
「なっ!」
「ククッ、許せ。自分でも驚いているんだ、こんなに……いいとは知らなかったからな。
おかしいか? 好いた女と口付けを交わすのは……元旦のあの時。お前が初めてだ。
この三ヶ月ただ唇を合わせるだけだったが、深くしてみたらこの有様だ。つい欲が出た」
「し、知りません!」
腕の中で顔を隠す千恵の耳は真っ赤だ。
だが、斎藤はそれでも彼女に、好きだという気持ちと同じくらい、欲しいと思っている気持ちも伝えたかった。
知っていて欲しかった。聖人君子と思われても困る。
いずれ全てを貰う気なのだから、予告ぐらいはしておかないと。何分彼女は……少し疎い。
「今はまだここまでだ。まだ、な。でもいつかは――」
肩を軽く弾ませ千恵の頭を起こすと、赤らんだ頬に手を添え、瞳を覗き込む。
潤んだように揺らぐ瞳に、言葉を刻む。
「いつか全て委ねて欲しいと願っている。お前の、全てだ。いいか?」
千恵の瞳はそっと伏せられ、僅かにコクンと頷いた。胸に押し寄せる愛おしさを伝えるように、再び口付ける。
今度はただひたすらに優しく、慈しむように。フワリと唇の輪郭をなぞるように掠め、下唇を淡く食んだ。
だのにそれすらも、鎮めた昂ぶりに再び火をつけそうなほど甘美で、斎藤は内心苦笑するしかなかった。
こんな風に大切にしたくなったり愛らしく思えたり、欲しくなったり守りたくなったり。
女を好きになるというのは、案外忙しいものだな、とつくづく実感した。
だがそれが面倒でない、というのが以前の俺と違う所か。自分の中で様々な色を見せる感情の嵐が、心地いい。
たぶんこういうのを「幸せ」というんだろう。
斎藤は淡く微笑むと、最後にもう一度千恵の額に口付け、部屋に送った。
千恵は部屋に戻っても夢心地で、千鶴の話し掛ける声に何と返事したのかも覚えてなかった。
早々と寝支度をして布団に潜り込み、目を瞑るとさっきの大人のキスが思い出され、一人赤くなる。
追い討ちをかけるように斎藤の眼差し、言葉、そしてその意味が頭を駆け巡り、寝付けない。
どうしよう!? えっと……全部って全部だよね? わぁっ! どうしよう!?
なんだかジタバタしている千恵に、千鶴が心配そうに声を掛けた。
「千恵ちゃん、大丈夫? お布団がバタバタしてるよ?」
「えっ!? あ、ハハハ、だ、大丈夫? かな?」
「クスクス、どうしたの? 珍しいね、千恵ちゃんがそんなに動揺するなんて。何かあったの?」
「ううん! いや、あったというか、これからあるというか……。ごめん、千鶴ちゃん、言えない。
あっ! でも心配しないでね? たぶんこれは……好きって事だから。大事にされてるって思ったし」
「クスクス、千恵ちゃん顔が赤いよ? いいね、幸せそう。今日もおかず取替えっこしたり、仲良かったし」
「うん、幸せ! でも幸せ過ぎて……言えない。こんなに言い出しにくい事だと思わなかったな。
千鶴ちゃんの時は、同じ体だから言えたけど……中々勇気が出ないの」
「体……あの事、話すの!? それは……凄く勇気が要ると思う。私とても言えないもん」
「でもいつかきちんと話したいの。大切な人に隠し事し続けるのって……結構キツイ」
「大丈夫だよ。気休めみたいに聞こえるかもしれないけど、斎藤さんならきっと分かってくれると思うな」
「うん、そう思いたい。そうじゃなきゃ、耐えられない。だから、勇気が出るよう応援してね?」
「勿論! 父様探し、苦しくて諦めそうになる度、励まして貰ってるもの。お互い様だよ」
「ありがとう。頑張るね」
ヒトに打ち明けるのは愛し、愛された時。優しく諭すように話してくれた両親の顔が思い浮かぶ。
あの人になら、打ち明けていいよね?
ゆっくり目を閉じると、両親が大丈夫だよ、と言ってくれた気がした。
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