162 嘉祥

南雲家本家、頭領の嫡男が手厚い看護の甲斐なく早世したのは、薫が藩を脱した一年半後の事だった。

藩命による密偵の役を担う事で安寧を求めた南雲の里は、長年に渡ってその小さな集落の独立を保ってきていたが。

天保からこちら、相次ぐ藩主の交代によって土佐藩との盟約が不確かなものとなり、政局の不安もあって里を離れる者が相次いだ。

密偵として京や江戸に潜伏していた男鬼が、情勢の混迷を察してそのまま姿をくらます事も増え、

報告書が届かない事も、届いた報告を持って行く相手が失脚し役職を継いだ人間にすげなく追い返されることも多々あった。

元は豊かな田畑も、耕す者がいなくなればすぐ荒れた土に戻ってゆく。

財も人も細る一方であるところにきて、次期頭領となる嫡男の死は民の不安に追い討ちをかけた。

空き家が増え、手入れの行き届かなくなった水路はあちこちが崩れかかっている。

移り住む余力のない老齢の者ばかりとなった南雲の里は、存亡の危機を迎えていた。

紙の上では正式な長子ながら質として藩へ差し出していた薫を、今更のように呼び戻そうという声が高まったのは、そういう事情からだった。

だが、ここ数年音沙汰のなくなっていた預け先を訪ねてみれば――既に家名もなく、当主は京へ上ったきり行方が分からなくなっていた。



ここに一人の男鬼がいる。名は嘉祥(かしょう)。幼い薫が南雲の里を出て行ったあの日、門の柱を叩いて涙したあの男だ。

硬質な短髪は緑がかった黒色で、丈は中背。歳は薫より一回り上で、鬼らしい堅牢な体躯の持ち主である。

彼は今、頭領の命により南雲の里を出立し、戦の道のりを辿って東に向かっていた。

焼け落ちた家屋から漂う酸味がかった匂いに顔を顰め、軍馬の足跡がいまだ残る山道を駆け抜ける。

その脳裏には出立の前日、屋敷の奥の間で対面した頭領との会話が回想されていた。


「薫を見つけ、説得の上ここへ呼び戻せ」

身勝手極まりない言葉に奥歯を軋ませ頭領を睨みつけた彼は、その瞳に悔恨を見て怒りの萎むのを感じた。

実子を看取りぐっと老け込んだ顔に刻まれた皺は、苦労の多い生き様をそのまま表している。表情に疲れが滲んでいた。

「あれは我を恨んでいるだろうな。……今更遅いが」

悔やむ声音に若かりし頃の力強さはなく、嘉祥は責めるつもりだった言葉をひとまず飲み込んだ。

「もし見つからぬ場合は如何様に?」

「ここにはもう、子を生める歳の女鬼がおらぬ。里を畳み人海に紛れるか、他の里を頼るか……

 いずれにせよ、南雲の里は終わる。皮肉なことだ、あれほどの無碍無体した薫が今になって最後の頼みとなるとは」

「薫様がお戻りを拒絶なさった場合は……?」

しばらく返事はなかった。様々なものが心に去来しているのだろう。

土地と役目と藩命に縛られ、時代が生じた軋轢に苦しみながらも生を賭して守ろうとした里が、なくなるかもしれないのだ。

息を詰めるような沈黙が続いた後、頭領は膝に目を落としたまま言った。

「薫を守れ。あれは雪村の忘れ形見でもある。どの口が言うかと笑われるかもしれないが、我とて決して不幸を願った訳ではなかったのだ。

 ……苦労を負わせて済まなかったと伝えてくれ」

戻ってこの里を再建して欲しいという望みを捨ててはいないが、それを強いるには絆すものが脆弱過ぎた。

“雪村”という名を口にした時、頭領の胸には苦い痛みが強く疼いた。

推量でしかないが、北の二つの里はひょっとしたら襲撃を受けたのではなく…………。

自ら断絶を選ぶより他無かったのではなかろうか。

鬼の血を欲する者がいたらしい事は、江戸へ放っていた密偵より随分前に報告が上がっていた。

異国の鬼の血が渡来しているかもしれない、という情報も不確かながら届いている。

おぼろげな点と点を繋げば、浮かび上がる一つの仮説。

我らを狩ろうとする人間がいたという事か――神より賜りしこの稀有なる血を。

雪村家と月宮家がその断絶をもって鬼の行く末を守ろうとしたのならば、我に出来る事はただ一つ。

顔を上げ、言葉ひとつ逃すまいと鋭く射る嘉祥の眼差しを捉える。


「薫を頼む。あれの身に流るる雪村の血を……薫を守り抜け」


改めて誠真なる心から生じた命令は、最初の呼び戻したいという私欲を打ち消して一人の若鬼を守れというものだった。

古き力を宿す純潔の鬼の血と若き同胞の命脈を繋ぐことは、南雲の里の存亡と計って上回る重要な使命であった。

嘉祥はその言葉の重さと力強さを受け止め、頭領と視線を合わせたまま頷いた。

「承知。この身に代えても若をお守り致します」

幼い頃より何度も通い、言葉を交わした頭領と、今初めて心が通い合ったと感じた。



京と大坂に起こった人の争いは、徳川家の江戸開城にて一旦収束するかに見えたが。

新政府が後の報復と転覆を恐れ、旧勢力が壊滅するまで手を止めぬだろう事は、今までの人の歴史が証明している。

嘉祥は薫の歩んだ暗い道程を追いかけて、戦乱の跡をひた走った。




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