145 迫闇 -2
千鶴はしばらく放心していたが、抱えている千恵の体が熱を帯び始めていることに気付いた。
早くなんとかしないと。……建屋の中に避難しなきゃ! それに、もう囲まれてるのかもしれない……。
新政府軍が迫っている、という薫の言葉を思い出し、彼女を一旦置いて竈の火に灰を被せた。
焦りと不安で腕が震える。かき混ぜるたびに火は勢いをなくしたが、上に置いた釜はまだカタカタと蓋を鳴らしていた。
立ち昇る湯気に混じる米の香りだけが、ついさっきまでそこにあったはずの穏やかさを示している。
千鶴は自分を叱咤しながら嗚咽を堪え、火が落ちたのを確認すると千恵を抱え直した。
意識の無い人間は重い。だが土間に置いて人を呼ぶ猶予はない。
そう判断し、上体を抱えて足を引き摺るような格好で、お勝手から彼女を引っ張り出した。
千恵ちゃん、千恵ちゃん!
ぐったりとした体はどんどん熱くなっていて、重さと一緒に罪悪感が圧し掛かった。
南雲さんは、自分をここから連れ出したくて来たはずだったのに。千恵ちゃんが目的じゃなかったはずなのに。
……なんでこんな事に。
冷たく笑う顔と怒りを押し殺したような言葉が耳に残り、混乱した。
心がひび割れそうなほど苦しかった。
縁側に辿り着いた千鶴は、急いで彼女を廊下まで引っ張り上げ人を呼びに走った。
殆どの隊士が調練に出払っており、人気の無い廊下を駆け足で奥へと進む。
突き当たりの部屋まで来ると、名乗りもせず襖に手をかけた。
スパンと開いた襖に驚き、二つの顔がこちらを見て怪訝そうな表情を浮かべている。土方と島田だ。
見つけた安心感で肩の力が抜ける。けれど、伝えないといけない事実に喉元が締め付けられた。
千鶴は土方と視線を絡ませ、懇願するように言った。声は小さかったがその声音は悲鳴を上げていた。
「新政府軍がこちらに向かっています! それと――」
スゥと息を吸って一拍置き、震える声で告げる。お願い、助けて……。
「千恵ちゃんが変若水を飲まされて……私のせいでっ……突然兄が来て……」
上手く言葉がまとまらない。早口で伝えた内容は支離滅裂だったが、それでも二人は弾かれたように立ち上がった。
「新政府軍が!? 雪村君、それは本当か!」
「クソっ、陣を移したのが仇んなったか! 千鶴、詳しい事情を話せ。
島田、月宮を奥へ運んだら外の様子を見て来い。急げっ!」
唸るような低い声で放たれた指示に、島田はすぐさま廊下へと駆け出した。
事のあらましを説明し終えた千鶴は、荒い呼吸で意識の戻らない千恵のそばに付いていた。
土方は近藤の所に居る。どうやってこの窮地を脱するか、相談しているんだろう。
油断すると涙がジワッと滲んでくる。でも泣くまいと必死に堪えた。
……辛いのは千恵ちゃんなんだから。しっかりしないと。
敵軍が何人いるのか、囲みを突破出来るのか、分からないまま待つ時間は長く感じた。
何度も瞼の奥に薫の顔がチラつく。考えれば考えるほど、混乱するばかりだ。
もし本当の兄だとしたらどうしてこんな仕打ちをするんだろう。どうして私じゃなく千恵ちゃんなの?
「ごめんね……ごめんなさい」
時折顔を顰める表情からも、触れる熱さからも、どんなに苦しいかが伝わってくる。
人が飲んだら羅刹になってしまう変若水を、鬼が飲んだらどうなるんだろう。
京に着いて羅刹に襲われた時の、狂った表情が頭を掠める。
慌ててギュッと目を瞑り、首を振った。
羅刹隊の人だって正気を保ってる。そうなるとは限らないんだから、考えちゃ駄目。でも……。
額の汗を拭いながら、指先の震えは止まらなかった。
「本当に……ごめんなさいっ……」
絞り出すような小さな声で、繰り返し謝るしかなかった。
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