144 迫闇 -1

四月三日、流山。

新しく布陣したその場所からやや離れた寺では、すでに隊士達の鍛錬が始まっていた。

千恵は千鶴と共に、お腹をすかせて戻る彼らがすぐ食べられるよう、夕餉の支度をしていた。

以前は幹部だけの食事を賄っていたが、新しく入った隊士には炊事に不慣れな者が多く、手を貸すことにしたのだ。

野菜を洗ったり水を汲んだりといった力仕事は頼めるため、主に刻むのと味付けを請け負っている。

釜の蓋から泡が噴いているのを横目で見ながら、二人は黙々と青菜を刻んでいた。

ふと、千恵の手が止まる。

まな板から顔を上げ、目を細め耳を澄ました。

「どうしたの、千恵ちゃん?」

「しっ! 足音がする」

緊張した表情に不安を覚え、千鶴も外を見たその時。

お勝手の入り口を塞ぐように、黒い外套を羽織った男が現れた。

断髪に洋装はまだ珍しくそれだけで人目を引く。だがそれよりも目を見張ったのは男の顔と目だ。

千鶴そっくりの顔立ちに納まった彼の瞳は、陰鬱な黒味を帯びてこちらを可笑しそうに見ていた。


「誰?」

ぶっきらぼうに千恵が尋ねると、肩を竦め男が口を開いた。

「顔を見て分からない? 俺は見てすぐ分かったけどね。初めまして、千鶴。

 俺は南雲薫。生まれてすぐお払い箱になった、正真正銘……双子の兄だ」

「っ……そんな……どうして」

そっくりの顔から紡がれた事実は裏づけなど要らないほど明白だったが、それでも信じられず、

千鶴は一歩後退りながら目を見開いた。上手く言葉が出て来ない。何と言っていいのか分からなかった。

そんな彼女を庇うように、千恵は足を一歩前に出した。

昨夜感じた気配と似てる、たぶん道中感じていた視線は彼のものだったんだろう。

けれど、兄というこの男から漂う気には、どこか禍々しいものが潜んでいる気がする。

千恵はその視線から隠すように、千鶴との間に立って不信感も露わに薫を見た。

「どうして? それはこっちが聞きたいね。生きてたら聞きたかったよ。…………やっぱりあんたも鬼か。

 どいてくれる? 妹を迎えに来たんだ。千鶴、俺と一緒にここを離れよう。もう新政府軍がそこまで来てる」

「新政府軍が!?」

さっきこの男が現れる前に聞こえたざわめくような足音はそれだったのか、と知ったが入り口を塞がれ動けない。

…早く皆に知らせないと! でも今ここで千鶴ちゃんを彼と二人きりには出来ない。

千恵は痛いほどの焦燥から薫を睨みつけ、

「いきなり現れて勝手な事を言わないで! 渡すわけないでしょ? 出て行って下さい、人を呼びますよ」

と、牽制するように少し大きな声で退けようとした。

「へぇ、誰か来るかな? 井戸の周りに居た男達なら気を失っているし、建屋の中までは声も届かない。

 ……無用心だね、大切な女鬼が攫い放題だ。だから人間じゃ駄目なんだ。ねぇ千鶴、僕なら守ってあげられるよ?

 おいで、一緒に行こう。ここの奴らと一緒に討伐される必要なんてないだろう、殺し合いは人間達でやればいい」

「南雲さん……あの――」

「今はそれより早く皆に知らせないと! 南雲さん、千鶴ちゃんは行きません。

 どんな事情で別れたか知らないし、今の状況で妹を助けたい気持ちは分かります。

 でも彼女は自分で選んでここに居る。千鶴ちゃんを助けたいなら、私達が逃げるのを手伝ってくれませんか」

「ハッ、なんで俺がそんな真似を? 忘れた訳じゃないだろう、人間とは不可侵……それが俺達の道だ」

すかさず鬼の理を出され、言い返せずに千恵が口を噤むと、薫は薄く笑い目を細めた。

空気の温度が下がった気がした。それほど酷薄な笑みだった。

「そうか、なら……俺しか選べなくしてあげる。誰も頼れない絶望と笑い方を忘れるほどの空しさを知れば……

 お前は俺の手を取るしかなくなるだろう? その為に、一番最初に身近な親友を失くすっていうのは面白いかも……ねっ!」

面白い、という言葉と同時に薫の腕が伸び千恵を掴んだ。

突然のことに身を翻そうとしたが、それより早く羽交い絞めにされる。

「千恵ちゃんっ! やめて、南雲さんなんて事をっ!!」

「イライラするなぁ、その名前で呼ばれると虫唾が走るんだ。俺を売った奴らの名前なんて聞きたくもないね」

「離し……てっ!」

千恵はその腕から抜け出そうともがいたが、痩身ながら薫の腕は力強く、一層喉元を締め付ける。

耳がキンと鳴り息苦しさに喘いだ。

懐から小瓶をを取り出した薫はその蓋を開け、無理やり千恵の口へ捻じ込んだ。

「んんっっ!!」

流れ込んできた鉄錆のような味に眉を顰めそれを吐き出そうとしたが、すかさず口元と鼻を塞がれた。

苦しい……息が出来ないっ……嫌ぁっっ!

もがき薫の腕に爪を立て暴れていると、呆然としていた千鶴が我に返り彼から千恵を引き剥がそうと掴みかかった。

「離して! 止めてっっ! 何を飲ませたんですか!?」

千恵があまりの苦しさからとうとう口の中の液体をゴクリと飲み込み、その喉の動きを確認すると。

薫はドンと彼女を千鶴ごと突き飛ばして解放し、不愉快そうに腕をさすった。

千恵の立てた爪で切れた肌がすぐ元に戻っていき、点々と血の痕だけが残っている。

「ごほっ、ごほっ……うっ!」

土間に倒れこんだ千恵は立ち上がろうと身を起こしたが、全身にあり得ないほどの痛みが駆け巡り蹲った。

「千恵ちゃん? 千恵ちゃんっ!?」

ドサリとそのまま昏倒した彼女を揺さぶりながら、真っ青になって千鶴は戸口の方を見た。

冷徹な視線が自分を見下ろしている。


「お前が素直に来ればこんな事せずに済んだのに。お前のせいでね、この女は――――」

羅刹になったんだよ。


「う……そ…」


最後に耳元で囁かれた言葉に呆然とし、土間に転がった小瓶を見た。

土に残りの液体を吸わせ空っぽになった瓶に付着する赤い色。

頭が真っ白になり、心が理解を拒否する。

嘘よ、嫌だっ、なんで!?

…………私のせい? 私が一緒に行かなかったから?

どうしよう、どうしようっっ!!


唇を戦慄かせながら千鶴が顔を上げた時、もう薫はいなかった。

意識を失くした千恵を腕に抱え、千鶴の頬に一筋の涙が伝った。

新政府軍はすぐそこまで迫っていた。





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