08 上巳
まだ寒さも日差しの弱さも二月とそう変わらないが、早春の気配がちらほら見えるようになってきた。
今日は三月三日、上巳の節句だ。何でもお上からよい報せがあったらしく、近藤さんは朝から上機嫌で、
そのおこぼれが千恵と千鶴にも回ってきた。祇園で宴会が開かれるので君達も来なさい、と誘われたのだ。
「いいんですか? だって祇園って……私達、お邪魔じゃないですか?」
「あの、すみません、私は体調が良くないので遠慮しておきます。千恵ちゃんは楽しんできてね」
仕方ない、千鶴ちゃんはお馬の二日目だ。あまり歩きたくないだろうし、長く席にも留まれない。
「そうかい、残念だね。せっかく上巳の節句なのに。せめて月宮君だけでも参加してくれないかい?」
優しく井上さんに言われては断れない。それに、祇園の茶屋なんてこんな機会でもなければ、一生入れない。
私は有難くお誘いを受ける事にした。あちらで着替えてもいいと、振袖を持って行く事を勧められた。
夜の巡察当番の平助君が参加を諦め、屯所の留守番に沖田さんが残り、山南さんが連れ出された。
ああ、だから沖田さんが残ったんだ。山南さんを連れ出して元気付けようという、近藤さんの案だったんだろう。
「それじゃあ行こうか。総司、留守を頼んだぞ!」
「ええ、楽しんで来て下さい」
沖田さんって本当は優しいんだよね。斬るとか殺すとか物騒だけど、本気の殺気を向けられた事は一度もない。
いちいち本気で反応する千鶴ちゃんが面白くて、からかっているだけだろう。くすっ、子供みたい。
そんな事を考えながら振袖や帯など一式を風呂敷に包み、玄関に向かった。
初めて見る幕末の京の町は華やかで、何もかもが珍しく歩くのを忘れそうだった。
「山南さん、あれ南座ですよね! いいな〜演目は何だろう。山南さん芝居はお好きですか?」
「ええ、好きですね。ですがこういう日は酔客が多い。それにまず満員御礼で入れないでしょう。
もっと空いている時に来る方がゆっくり楽しめますよ。今度時間のある時にでも声を掛けましょうか?」
「本当ですか? 有難うございます! あの、でも……こちらのお金を持っていないんです」
「フフフ、女性に払わせるような野暮ではありませんよ。昔在籍した藩では禁止でしたが、実は見たかったんです。
江戸では芝居を見に来られるほど余裕がありませんでしたし、ようやく京で見られて念願が叶った」
前に近藤さんと土方さんと井上さん、後ろに斎藤さんと原田さんと永倉さんが並び、挟まれるように歩いた。
片手の使えない山南さんと、剣を持たない私を守るように配慮したのだろうが、意外にも会話は弾んだ。
世話物を見に来ましょう、と約束したところで藤屋に着いた。祇園で茶屋遊びなんて、すごい!
一室を借り、振袖を着て化粧をすると、置屋から来たお姐さん達から感嘆の声があがった。
「あんな男のなりさせるなんて、ほんま不粋やわぁ。踊りも出来るんやて? うちおいでぇな」
「堅気の娘さん引き込んでどないすんの。堪忍な、冗談やさかい。ほんまに別嬪さんどすなぁ、うちらが霞むくらい」
「フフフ、お上手ですね、ありがとうございます。お姐さん達が霞むなんてそんな。本当にお綺麗です」
商売用の言葉だろうが、褒められて嬉しかった。さてと、座敷でお披露目しますか。
「お待たせしました。近藤さん、今日はお声を掛けてくださって有難うございます」
淡い桜色の着物に大小の花々が散りばめられ、裾には御所車や鞠が刺繍された豪勢な振袖。
若葉色の帯には上品に金糸で刺繍が施され、初めて着けるので硬いが、お陰でシャンとする。
かんざしにも桜が咲き誇り、白い肌につつじ色の紅が映える。何か、触れるのが躊躇われるような幻想的な美しさだった。
「いや、本当に器量よしだな! 驚いたよ! トシ、ちゃんとしてやった方がいいんじゃないか?」
近藤は、ご両親が生きてこの姿を見られなかった事を残念に思った。さぞかし喜ばれたろう。
「確かに中々のもんだな。綺麗じゃねぇか。そうだな、ちゃんとした方がいいかもな。
だが本人次第だ、こっちで決めていい事じゃないだろう。本来なら親のする事だ」
「ええ、ですがもういらっしゃらない。ここは預かっている私達が責任を持たないと。
それにしても美しいですね。今日は付いて来て正解でした、気分が晴れます」
「ああ、ほんとに皆の言う通りだ。まるで自分の娘の晴れ姿を見ているようだ。君が娘なら鼻が高いだろうね」
ん? 何の話だろう?? よく見えないが、とりあえず褒めて貰えてホッとした。この振袖、高いもの。
久々の帯が苦しいが、お茶会よりは気張らない席なのでちょっと緩めてある。
「褒めて下さって有難うございます! あ、お姐さん方が来ましたね。それじゃ、席に着きますね」
ツイと幹部の三人を見やると、こちらをジッと眺めていた。私の視線に気付き、新八さんが固まる。
斎藤さんはなぜか、目を逸らした。なんだろう、耳が赤い。前にも思ったけど、女性が苦手なのかな。
「千恵、本当に綺麗だな。今日は飲まなくても酔いそうだ」
原田さんが目を細めて嬉しそうに笑む。女性にもてる人はやっぱり、欲しい言葉を心得ている。
礼を言い、空いている横の席に座ると、反対隣りの斎藤さんと目が合った。ああ、やっと見てくれた。
……と思ったら今度は目を逸らさない。言葉を待つが、無言でジッと見つめられる。
段々恥ずかしくなってきて、私の方から声を掛けた。
「あの、斎藤さん?」
「……ハッ。ああ、すまない。桜の……いや、忘れてくれ。
いや、やはり今伝えた方が……。その、き――」
「さあ諸君、乾杯しよう! 我らをお認め下さった事に感謝を! ますます精進しようじゃないか!」
何か言いかけた斎藤さんの言葉は、近藤さんの音頭によって掻き消された。後でもう一度聞こう。
出されたお料理はとっても美味しくて、特に豆腐田楽は絶品だった。お替りしたいくらい。ん〜〜幸せ!
上巳だから、と私にだけ出してくれた甘酒を飲みながら、上品な味に舌鼓を打った。
左之助は、まるで満開の桜を見ながら花見をしているような気分だった。
見て分かる良い仕立ての着物、上品な箸の運び。いかにも大店の娘、という風情だ。
あちらでは貿易商の娘だったらしいが、かなりいい所のお嬢さんなんだろう。豪勢な着物に気後れしてる様子もない。
気さくで気取らない態度に、今まで気付かなかったが……何不自由ない暮らしをしてたんじゃないか?
なのに、屯所の質素な膳もここの膳も、同じように美味しそうに食べるのは躾の良さだろうか。
「屯所の飯と雲泥の差じゃねぇか? 特に田楽はここの名物だそうだ、本当に美味いな」
「確かに美味しいですね! やみつきになりそうです。でも屯所の食事も美味しいですよ? 皆さんと一緒ですから」
にっこり笑うとえくぼが出来て、清楚な美しさに愛らしさが添えられる。左之助は鼓動が速まるのを感じた。
柄にもなく照れてしまった自分を誤魔化すように、杯を空けた。どうやら本当に、千恵に酔ったらしい。
嬉しそうに田楽を摘む彼女の横顔を肴に飲む酒は、本当に美味しかった。
斎藤は桜の精に出逢った、と思った。着物と化粧だけで人の本分を見誤るほど愚かではなかったはずだが……。
今日の月宮は目を合わせられない程眩しく、目を逸らせない程美しかった。人ではなく精霊の類かと思うほど。
だが、それをどう表現していいのか分からなかった。伝えたいと思う言葉は、喉元で留まってしまい。
意を決して綺麗だと言おうとしたのに、局長の音頭に掻き消され伝わらなかった。
……サラリと口に出せる左之が羨ましいな。
単純に物事を説明する時にはスラスラと言葉が出るのに、感情を伴った途端言えなくなってしまう自分が恨めしかった。
……感情? 一体どんな感情だろう? 言葉が出なくなるような気持ちとは、何だろう?
自分の事がよく分からなくなった。月宮の人柄は、毎日の様子からよく知っているのに、何故突然話せなくなったのか。
小鳥のように膳の食事を小さく切って啄ばむ唇の紅が鮮やかで、目の端で動くのを感じながらぼんやり杯を眺めた。
横に居る、というだけで、そちらの側面だけが温かく感じた。
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