113 故郷

斎藤と千恵が数珠の重要性に気付き、伏見の奉行所で寄り添っていた、丁度同じ頃。

将軍の居る大坂、戦の始まる京、徳川のお膝元の江戸を避けて、山中の粗末な小屋に潜む初老の男性がいた。

彼は長い巻紙に文をしたためていた。その文字は細かく、書きたい事は尽きなかった。

時折想いが溢れて筆が止まり、しんしんと降り積もる雪を眺めに表に出ては、また戻って書き進める。

これが遺言になるかもしれない、そんな事を思いながら、けれど文がいつかもたらす再会に、望みを託した。

「外の冷気に何度も当たっては、お風邪を召されます。昼餉が出来ましたから、どうぞ火のそばへ。

 青菜が手に入りませんから、今日もこんな雑炊になってしまいましたが……いただきましょう?」

振り返ると優しく温かい笑顔がこちらを向いていた。……やっぱり、何歳になっても綺麗だ。

男は、女の面差しを眺めながら、目を細めて優しく笑んだ。長く連れ添った夫婦のように。

「構わないよ、君の作る物はなんでも美味しい。早速いただこう。ほら、碗をおくれ。私がよそってあげよう」

本当に、このままここで静かに暮らせたらどんなにいいだろう。それほど、幸せだった。

もう離れたくない。二度と離したくない。もうあんな思いはしたくないし、させたくない。

よそった雑炊を手渡すと、少し指先が触れ合った。年甲斐もなく、胸が弾む。

「ありがとうございます。フフフ、本当にお優しくていらっしゃる……私は果報者ですね」

「いや、それは私だろう。筒井筒の貴女とこうして並んで、側に居られる日が来るとは……夢のようだ」

温かい雑炊を口に入れると、食材の乏しい中にも工夫した様子が分かり、その思いやりをしっかりと味わった。

体も心も温まる幸せな昼餉だった。小屋は冬を越すには心許ない粗末な物だったが、気にもならない。

やがて鍋が空になると、代わりに鉄瓶を掛けて湯を沸かした。ただの白湯も二人だと美味しく感じるから不思議だ。

男は湯飲みを傍らに置くと、少し真剣な面持ちで女性に切り出した。夢から現へと戻らなくてはならない。



「年が明けたら、江戸に行って同胞に文を託そうと思う。それから私は変若水の回収に向かう。

 君の事は、松本という昔馴染みに頼んで、私が戻るまで預かって貰おうと思うんだが、どうだろう?

 承知してくれるかい? 八千代……ハハ、まだ呼び捨てにするのは少々照れ臭いね」

つい先日、手に入れたお神酒を分け合い、夫婦の契りを交わした二人は、初老にして新婚だった。

勿論届けなど出していない。二人だけの祝言だったが、それで充分だった。

男の言葉に頬を染めた八千代という女性は……年は四十半ばだったが、器量が良く、品があった。

「こうして居られるのも、全て貴方のお陰。正気に戻れた今は、闇に囚われていた事がただただ恥ずかしいです。

 離れたくはありませんが、変若水はこの世にあってはならない禁忌の毒薬です。

 必ず迎えに来て下さいね? 待ってます、千鶴さんと戻られるその日を。……綱道様、いえ、綱道さん」

「ああ、必ず迎えに行くよ。早く君を千鶴に紹介したいものだ。優しい子だから、すぐに仲良くなるだろう。

 変若水を奪還して千鶴を連れ帰ったら、三人で八瀬の方にお願いして、里に匿ってもらおう。

 今は娘さんが跡を継いでいるはずだ。名は忘れたが、確か千鶴と同い年のお嬢さんだ」

「千姫様ですね? フフフ、案外千鶴さんにはもう、いいお方がいらっしゃるかもしれませんよ?

 千姫様も千鶴さんも、年が明けたら二十一です。結婚して子供の一人ぐらい居てもいい頃ですもの」

孫か……千鶴の子なら、どんなにか愛らしいだろう。千鶴は幸せを見つけられただろうか?

遠く京で新選組に身を寄せる最愛の娘を想い、綱道は溜息をついた。ここに居ては何も分からない。

安全と引き換えに町からも離れた為、綱道には開戦が近いらしい、という大雑把な事しか分からなかった。

出会いと別れを繰り返し、どんなに年を重ねても、別れが辛くないなんて事はない。

綱道は年の瀬の残り僅かな時間を惜しむように、八千代の傍らに座り直した。

そっと肩に手を置くと、遠慮がちに頭をもたせかけてくる。触れた部分が温かかった。

「もしまた生き別れになったら……もう一度数珠に願ってくれるかい? 私の元へ降ってきて欲しい」

「ええ、念じます。必ず貴方の元に落ちて来ますから、しっかり受け止めて下さいね?」

「ハハハ、なら腕の力が衰えないよう、鍛えておかないといけないね。

 月宮の方は許して下さるだろうか? それに、雪村の方も」

「許すも何も、もう皆いません。大事な息子も、夫だったあの人も……皆みんな……焼けて……」

「っ! すまなかった、辛い事を思い出させたね。大丈夫、きっと、痛みも苦しみもない世界で幸せに暮らしてるはずだ。

 私達は彼らの分まで長生きして、彼らの想いに応えよう。幸せになるのが、一番の供養だろう」

そう言うと、鋼道は八千代の手を取り立ち上がった。日課の墓参りに行くつもりだ。

二人は羽織をしっかりと着込んで表へ出た。雪は一面を白く覆い、その下に悲しみを隠して積もっている。

サクサクと新雪を踏み固めながら歩く鋼道の後ろを、八千代は俯きがちに付いて行った。

やがて只の大き目の石が見えると、二人はその前で立ち止まった。これが墓だった。

その下には何も無い。いや、唯一、八千代の姉の愛用品だった手鏡だけが、亡骸の代わりに埋められている。



月宮八千代、その旧姓は雪村。十四年前に焼け死んだ東の頭領の奥方は、八千代の姉だった。

つまり、八千代は千鶴の、正真正銘本物の叔母だったのだ。

姉が頭領の細君に納まった後、血の濃い妹の八千代に、北の頭領である月宮から縁談が来た。

家臣で血の薄い綱道との恋は許されず、北との結束を深めるため……八千代は泣く泣く月宮に嫁いだ。

だがそこで子を成し、夫も成長した息子に跡目を譲り、それなりに幸せな日々を送った。……あの日までは。

八千代が姉夫婦の墓石に積もる雪をサッと払うと、その冷たくなった手を綱道が包んで温めた。

……そうね、幸せにならないと。それに私はもう月宮じゃない。雪村八千代。綱道さんの妻、ですもの。

再び嫁いだのに旧姓に戻るのも変だが、同じ一族だったのだから仕方がない。

八千代は彼の温かな手に幸せを感じ、目を閉じて祈りを捧げた。

私達は生きています。この血を大切に……生き長らえた命を大切にして、幸せになります。

姉様、千鶴さんを私の娘に下さいね?必ず大事にします。あの子を幸せにしますから。

目を開けてそっと横を見ると、綱道と目が合った。八千代は微笑みながら聞いた。

「千鶴さんってそんなに私に似てるんですか?」

「ああ、若い頃の八千代殿……いや、八千代そっくりだ。本当に貴女に良く似て綺麗な子だよ。

 ハハハ、千鶴を育てている時は、まさか再び本人に巡り会えるとは思わなかったがね?

 さあ、体も冷えてきたし小屋に戻ろう。火種が消えたら小屋も冷えてしまう」

綱道は来た道を、今度は八千代と手を繋いで歩いた。いつの間にか雪が止み、少し明るくなった空を見上げる。

千鶴、元気かい? 私は今、この上なく幸福だよ。お前も幸せでいておくれ。必ず……再び会おう。



京から遥か遠く。焼け跡に残った小屋で、綱道と八千代は身を寄せ合って年の瀬を過ごした。

ここは雪村の里。二人が生まれ育ち、初恋を胸に秘めたまま泣いて別れた場所。そして…………千鶴の故郷だった。





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