110 刀創

王政復古と同時に下された朝廷の命令を、最後の将軍慶喜公はあっさりと受諾した。

彼自身には抗戦の意志はなかったんだろう。その証拠に、御所近くの二条城からもすぐ立ち退いた。

王政復古で幕府に統治権がなくなり、市中警護の任を解かれた新選組は、代わりに空になった二条城の守護を任された。




天満屋事件の翌日より三番組組長に復帰した斎藤は、主のいなくなった城の守護からの帰り道、懸念と疑問に捉われていた。

心を悩ますのは新選組の行く末でも、警護中の他藩とのいさかいでもなく、自身の体の事だった。

別に体は至って健康だ。昨夜は千恵を求め、今朝は鍛錬をしてから隊務に加わった。

良く食べ良く眠り、病気も怪我もない。いや、違う。怪我はあったのだ。

問題は怪我ではなく……怪我をしたのに痕がない事だった。

……俺は確かに天満屋で、敵から刀創をもらった。身を捩って逃れたが、刃先は僅かに頬をかすった。

梅戸が俺を庇った後は乱戦で、終わった途端に千恵も飛び込んで来た為失念していたが。

……何故刀創がどこにも見当たらん?

朝、顔を洗った時に気付いたのだ。そういえば怪我をしていたはずだった、と。

千恵の鏡を借りて確認したが、一本の筋すら残っていなかった。何も……痕がなかった。

斎藤は警護の報告を済ませると、勝手場に顔を出した。千恵が夕餉の汁を仕上げている所だった。

「ただいま、夕餉の支度はもう済んだか?」

「お帰りなさい! ええ、後は膳に並べるだけです。おなか空いたんですか? もうちょっと待って下さいね」

「いや、少し話がしたかったんだが。忙しいなら夜で構わん。邪魔をしたな。後で運ぶのを手伝おう」

勝手場に漂う出汁の香りに、急に空腹を思い出した。今問うた所で解決はしないだろう、先に夕餉だ。

賽の目に切った豆腐がまな板の上に見えて、嬉しくなった。千恵の味噌汁には、味以上の何かが入っている。



夕餉と風呂が済むと、斎藤は部屋に行灯を点して千恵の戻りを待った。

待つ間に懸念を再確認したくなり、刀の刃を腕に当てて、ほんの少しだけ軽く引いた。

チリッと肌が痛み、ごく浅く一寸にも満たない傷から、僅かに血が滲む。刀を置いて傷口を手拭いで押さえた。

もしこれで傷が消えていたら……俺は……人ではない事になる。

少し緊張しながら、ゆっくりと手拭いを外して、まじまじと自分の腕を見た。

血を拭った腕には……傷痕がなかった。

ドクンと心臓が跳ねる。確信を得てなお、事実が現実とは思えず、焦燥が湧いた。

俺は……もう人ではない? 俺は羅刹なのか? 変若水も飲まず羅刹になる事など……有り得るのだろうか?

一瞬、離れでの羅刹粛清を思い出した。あの時血を浴びたのがいけなかったのか?

いや、血を浴びはしたが、口にはしていないはずだ。口にしていないなら何故……そうか!! あの時!


千恵が羅刹に襲われた夜。爪の間に詰まった血を拭うため、彼女の指を口に含んだ。

天霧に攫われかけた千恵を取り戻した時。甘い接吻の最中、口に血の味がした。

千恵は少し舌を噛んでしまっていて、唾には彼女の血が混じり……俺は確かにそれを味わった。

参ったな、俺は……いつの間にか禁忌を破っていたらしい。鬼の血を、体に取り入れてしまったか。

千恵の指を含み、切ない一瞬の再会で口付けを交わし、どちらの時も血の事など念頭になかった。

ただ愛しさが募っただけだった。決して千恵の血で鬼になろうとか、その力を手に入れようとした訳ではなかったのだが。

事実は事実、結果がこれか。人に生まれ、人の道を外れた人生を歩み、鬼を愛し……とうとう鬼になった。

理由が分かると、いくらか気持ちが落ち着いた。決して褒められた行いではないし、知れば風間辺りは怒りそうだ。

それでも、千恵と同じになったのだと思うと感慨深かった。夫婦は似てくると言うが、千恵に似るなら悪くない。

愛する女の血が体の中にある、そう思うと体が温かく感じた。斎藤は廊下に彼女の足音を聞き、微かに微笑んだ。

さてと、どう話そう? どんな反応をするだろう? ……お前とお揃いは、気分がいい。

襖が開くと、湯上りでほんのり頬の赤い千恵が、笑顔で入って来た。斎藤はいつになく明るく笑い返した。



「…………」

「ククッ、固まってるな。驚くのも無理はない。俺も困惑はしたが……抵抗はない。

 怪我がすぐ治るのは利点だし、お前と同じなら鬼も悪くない。むしろ嬉しいくらいだ」

「本当に? でもだって、覚悟があって選んだわけじゃないでしょ? その……あの時は私から口付けちゃったし。

 人じゃなくなったのに、いいんですか? それに、これってばれたら不味いですよね?」

千恵があんまり心配そうに申し訳なさそうに言うので、斎藤は安心させるように頭を軽く撫でた。

確かに、結果として禁忌は破ってしまったが、何も千恵の血を抜いて研究して利用しようというのではない。

それに羅刹と違い、鬼になったところで暮らし向きに不便が生じるわけでもない。

夫として長く千恵を支えていく為にも、同じ鬼である方が何かと都合がいいだろう。

怪我が消えるのは戦に向けて大きな利点になる上、もし身体能力が上がっているなら戦いも楽になる。

鬼の気の操り方を今度千恵に教わろう、と思った。心配はただただ、千恵を利用される事だけだった。

「能力が移ることは言わん方がいいだろう。狂気も吸血もないとなれば、軍事利用されかねん。

 二人だけの秘密にするか? 念のため、体質の変化を副長だけには伝えておこうと思うが」

「そうですね、大怪我した時上手く誤魔化してくれる人がそばにいると、きっと助かると思います。

 あともう一人忘れてません? 千鶴ちゃんにも教えてあげないと。

 何かの拍子で人に飲まれてしまわないよう、よくよく注意しないといけないですから。

 あ、でも千鶴ちゃん、ひょっとしたら土方さんに飲ませちゃうかも。私も、役立つなら少し位はって思いますもん」

斎藤はちょっとムッとして千恵の頭をポンと軽く叩いた。その安易な考えは危険すぎるからだ。

「千恵、それを始めるときりがない。あの人になら、この人にも、とやっていくうちに、きっと危険な目に遭う。

 あいつには良くて俺は駄目なのか、俺にもくれ、と次第に縁の薄い者にまで迫られかねん。

 唇と同じだ、無闇に与えるものじゃない。……といっても、怪我人をみればそうしたくなる気持ちは分かるが」

「そっか、そうだよね。……ごめんなさい、気をつけます」

戦が始まれば何度もその誘惑に駆られるだろうな。斎藤は千恵を諭しながらも、自制心が試されるだろうと懸念した。

人は怪我をすれば、日にちをかけて治すのが当たり前だ。それが自然の摂理で、鬼は……特殊だった。

残りの人生まで面倒を見られるわけではないのだから、他人を安易に鬼にしてしまうわけにはいかない。

自分とて、そうなると分かっていたら、生死の境を彷徨いでもしない限り、飲もうとは思わなかっただろう。

鬼になった事を後悔はしていないが、自分から与えるのも求めるのも、違う気がした。

確かに千恵の言う通り、雪村なら副長に与えようとするかもしれんが。それは二人に任せよう。

二人が付き合ってもうすぐ一年になる。斎藤から見ても、千鶴は土方の支えと癒しになっていた。

愛し合う二人はいずれ祝言を挙げるかもしれない。そうなれば土方も鬼の一族。飲んで差し支えはないだろう。

だが……副長はきっと望まんだろうな。

土方が、故意に千鶴の肌を傷つけるような行為を許すはずがない、と斎藤は思った。

自らは飲むまいと思うのも、たまたま飲んで変化した体を受け入れるのも。

「愛ゆえ、か」

ポツリと呟いた斎藤は、千恵を抱き寄せた。湯上りに話し込んだせいか、手足が冷たい。

すぐに温まる方法は一つ。斎藤はそのまま抱き上げると布団に運び、それを実行に移した。

人だろうが鬼になろうが、営みの良さは何ら変わらず。慈しむ気持ちだけが増す一方だった。






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