109 男鬼
慶応三年十二月九日の夜。
天満屋から戻った斎藤と千恵が夫婦生活を再開した翌日、御所では重要な朝議が行われていた。
まだどうにかして徳川家を新政権に残そうと粘る土佐の前藩主と、絶対に排除したい岩倉具視が対決していたのだ。
慶喜公を除いて開かれたその朝議は長引き、休憩を挟んで論議は白熱した。
岩倉は、自分の意見が通らないようならこいつを殺して自分も果てよう、とまで思っていた。
その気迫と執念が、最後には望む裁定をもぎ取った。
ついに王政復古の大号令が発せられ、慶喜の辞職と領地の返還を命じる事が決まったのだ。
土地は返せ、お前は失せろ。そういう事だった。朝廷は、そして帝は……完全に薩長の手に渡った。
「なんですって!? じゃあもう徳川は……。そう、土佐が粘れば折り合いが付きそうだと思ったのに。
もう道はないのね。……菊、ここを引き払う準備を! 開戦の前に、里へ皆を避難させます!」
京の隠れ家の一室。伝を使っていち早く情報を手に入れた千姫は、決断と同時に指示を出した。
朝廷内のクーデターに怒って、徳川寄りの幕臣達はきっと挙兵するだろう。もうどうあっても戦は免れ得ない。
千姫には同胞を守る義務と責務があった。通行許可証が有効な内に移動する方が賢明だ。
一旦開戦すれば、あちこちが封鎖されたり寸断されるだろう。
血の濃い千姫らは平気だが、血の薄い者や男鬼と結婚している人間の女性は、街道を移動出来ないと辛い。
千姫の判断は間違っていなかったし、今は早く決めてすぐ動く必要があった。
でも。誰かに、大丈夫だ、間違っていない、と言って欲しい。支えが……相談出来る人が……欲しい。
決して侍従や家老達を低く見ているわけではないけれど、結局は部下で、最終的な判断は千姫が下さないといけない。
平時ならまだいい。だが、もうじき戦時の頭領になる。私の手に……皆の命と未来がかかっている。
二十歳そこそこの千姫には、あまりに大きくて重たい荷物だった。しかも、下ろす事も引き継ぐ事もできない。
欲しかった。対等に話せて、自分の立場を理解してくれて、尚且つ……信頼できて支えてくれる相手が。
頭に過ぎったのは。……風間だった。
数ヶ月に一度、「顔を見に来た。大事無いか?」とふらりと現れては、すぐに立ち去る優しくて冷たい男。
今の薩摩の状況じゃ、きっと顔を出すだけで精一杯なんだろうけど、もう少し……居てほしいのに。
会う度に惹かれるのが分かる。見る度に胸がときめく。帰る度に寂しい。
菊を退室させた後、桐箱から黒い羽織を取り出して、そっと胸に抱き締めた。
「千景……会いたい」
まだ本人には言った事のない、大切な自分だけの呼び名を呟くと、残り香の薄れた羽織に頬を寄せた。
「男の形代に身を摺り寄せるとは、中々風情のある眺めだな。だが……俺を求めるならなぜそう言わん?」
……え? ……嘘っ!?
振り返ると、おかしそうに口元を笑んだ風間が、襖を開けて入って来た。
「はぁ、頼って来るのを待っていたが……まさか羽織に頼るとはな。
千姫、朝議の裁定はもうこちらに届いておろう? もうじき兵の布陣が始まる。
薩摩が事を成すまで待つつもりでいたが、京は危険だ。千姫、俺を選べ。……共に来い」
言葉は偉そうなのに、どうしてこんなに優しく耳に響くんだろう。なんて……甘い目をしてるんだろう。
千姫は、恥ずかしい場面を見られたのも忘れて、風間の顔をじっと見つめた。それだけで、胸が熱くなった。
風間は千姫の前にしゃがむと、片手を差し出した。自分とは違う大きな手に、千姫の目は吸い寄せられた。
けれど、責任感が邪魔をする。皆を案じる気持ちが、手を伸ばすのを躊躇わせた。
「皆を無事避難させるまでは……だって私は――」
「はぁ、まったく強情な姫君だ。だが、その想いは誠実だな。……分かった。俺の里ももう移動する。
倒幕を見届けたら移る算段で、隠れ里を用意した。そこに八瀬の者達も迎え入れよう。
……意味は分かるか? 二つの里を一つにまとめる。里の者ごと、この俺に身をゆだねろ」
風間は千姫の揺れる瞳をしっかりと見つめ、そこに確かに安堵の色を読み取った。
きっと揺れているのは、突然の事だからだろう。それと……大切な言葉をまだ残してあるから。
祝言の日まで大切に取っておくつもりだったが。
言葉は使いどころを誤らん方がいいな。今がきっとその時だろう。
風間はククッと小さく笑うと、千姫の頬に片手を添えて、身を寄せた。息が掛かるほどそばに。
「お前を好いている。いや、愛している、と言った方が正しいか。……会う度に気持ちが増す」
「ほん、と?本当に私のこと――」
「ああ、嘘は言わん。少し早いが……戦が始まるのにお前を放っておける訳なかろう?」
千姫は、涙が溢れそうになるのを堪えた。鼻の奥がツンとして、胸が苦しいほど何かがこみ上げてくる。
目尻から涙が零れたのと、唇から言葉が零れたのは、同時だった。
「私も好きっ。貴方が……千景が愛しかった。私の隣りに……並んでくれますか?」
「約束だ、ちゃんと空けて待っていたようだしな」
風間は千姫の頬に伝った涙を指で拭うと、優しく笑んだ。言葉で伝えたら、もっと想いを分かち合いたくなる。
何もかも祝言まで待つつもりが、迎えるのも早めて言葉も先に言ったのだ。行動も……少しくらいはいいだろう。
「目を瞑れ。こちらの方が言葉より伝わりやすい」
顔をより近づけると、待つように瞳を閉じた千姫の首元に手を滑らせて支え、唇に熱い想いを託した。
柔らかな唇が重なると、風間の胸に歓喜が沸いた。やっと……手に入れた。
少しだけ、もう少しだけ、と温かさを分け合う心地よさに酔いながら、初めての口付けの甘さを堪能した。
きっと、どんなに待ったか、どれほど焦がれたか知らないだろう。
欲しいと願ったその日から、花を見る度千姫を思い出した。
顔が見たくて突然来ては、時機も来ていないのに攫ってしまいそうで、想いを抑えて帰った。
…………一生言えん秘密だな。
十も下の千姫にこの俺が恋焦がれていたなどと、口が裂けても言えないが。これで本気だとは分かっただろう。
風間は、再び伝った涙を唇で受け止めると、そのまま千姫を胸に掻き抱いた。
「伝わったか?」
小さく頷いた千姫の頭を撫で、その髪に鼻先を埋めて香りを吸い込んだ。
男が女に口付けた。ただそれだけ。
人も鬼も違いはなく。
恋は恋で、愛は愛だった。
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