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花曇り。
えりはこの言葉が好きだった。
遠い昔、手習い程度に兄に文字を習っていた頃に、兄が手本にしてくれたのが『花曇り』だった。

まだえりが十にもならない子供の頃。
貰われていった妹を不憫に思った末の兄である近藤はえりの元を頻繁に訪れては、色々な事を教えてくれた。
実家は裕福な豪農なので、兄は字の読み書きができる。幼いえりはそれを羨ましがり、文字を教えてくれとせがんだ。

はな、ゆき、かぜ、そら。
まだ少年が抜けない近藤がえりに初めて教えたのは、そんな他愛もない文字。
それでも妹にささやかな幸せを思わせる温かな言葉を最初に教えたのは、若いながらの兄心だったに違いない。
えりは兄が書いてくれた手本を大事に使い、来る日も来る日も文字を書き続けた。
それから数年後の十三の年に、兄が訪れた。

桜の時期だ。
江戸っ子は桜好き。ちょいと空き地が見つかれば、ひょいと桜がお目見えするくらいに、近所のあちこちに桜の木が植えてある。
二階から見下ろした深川の掘割では、木場の人足達が忙しく働いていた。
水に浮かんだ桜の花びらを押しのけるように、材木が堀の水の中に浮かんでいる。
それを竹竿で押す男達を眺めながら、えりはため息をついた。

「こう陽気が悪いと、いやになります」

外は薄ぼんやりとした雲に覆われている。
えりは近所の空き地の夜桜が好きだったが、昼間の桜は青空の中にあるのが一番だと思っていた。
窓際に腰を下ろしてその光景を眺めていたえりの傍に近藤も腰を下ろし、曇天の空を眺めた。

「いや、そうでもないぞえり」

そう言った近藤は、空を指差す。

「この空は『花曇り』と言ってな、桜の時期にだけ呼ばれる曇り空の事なんだ」

「どう、書くんですか?」

まだ、漢字は教えられていなかった。



初めて書いた漢字が、『花曇り』だった。
そんな幼い日を懐かしく思いながら、えりと土方を乗せた小舟は川を下っていく。
時間が取れたからと、土方はえりを桜見物に連れ出した。
近所の桜でも見に行くのかと思っていたが、土方は急ぎえりに弁当をこしらえさせ、一日かけての見物を決め込む事にしたらしい。

川岸には何本もの桜が植えられ、その花びらがはらはらと小舟に降り注ぐ。
風呂敷包みにした弁当の上にも、えりの髪にも、薄紅の花びらが降り注いだ。
土方はえりの正面に腰を下ろして、降り注ぐ桜の花びらを眺めている。
空は花曇り。まさにえりが幼い日に兄に教えてもらった、春の明るい靄のような曇り空だ。

「花は桜木、人は武士、なんてよく兄さんが言ってましたっけ……」

頭上から舞い落ちてくる花びらを見上げたえりが呟くと、土方は腕組みしたままに苦笑する。

「ああ、一休禅師の言葉だな。近藤さんはんな事までお前に教えたのか」

「ええ、兄さんが文字を教えてくれた時にちらっと」

「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしのってな。吉野の桜なんざ見た事はねえが、禅師が残したくらいだ。そりゃあいい桜なんだろうよ……」

そう土方が言った時、川風に舞い上げられた花びらが一斉に空を舞う。
えりの髪もその風に煽られ、えりは髪を押さえながら、その空を見上げた。
霞のような空は一瞬舞い上げた花びらをその中に吸い込むように隠すも、やがてゆるやかに風が止み、花びらはまたはらはらと二人の上に落ちてくる。
川面に落ちて花筏になった花びらも、二人の後をついていくかのように、川をゆるゆると下っていく。

「お天道様がかんかんに照ってる時の桜もいいもんだが、花曇りってのも風情があるもんだ」

ここは、春霞の中。
空も、川面も、一面の薄紅の中にある。
えりは夜桜が好きだったが、こうして二人で眺めていられるならば、どんな桜も美しい。



霞んだ空が、僅かな光を帯び始めた。
その光に照らされた花びら達が眩しいほどの白を纏い、二人の上に舞い落ちてくる。
えりはその美しさに声を失い、空を見上げている。
青空の下でなくともこれほどに美しい舞桜を見たのは初めてかもしれなかった。
そう思えるのは、自分の目の前で同じように空を見上げる土方がいるからかもしれない。
土手に並ぶように植えられた桜の枝が、そよ吹く風にさらさらと髪を靡かせた娘のように穏やかに佇んでいる。
船縁に背を預けるようにして空を見上げる土方の穏やかな姿。
時折かたり、と揺れる小舟の上で、彼はえりすらいないかのように、この桜の中にいた。

土方はふと目を閉じ、桜の雨を仰いだ。

そんな姿に思わず息を飲んだ時、土方の髪が風に靡いた。

その髪に纏っていた花びらは、風に乗って風下のえりの頬を掠める。

まるで、彼がえりの頬を撫でたかのように……



花筏が、二人の後をついてくる。

穏やかな、京の春だ。




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