二、
朝鮮半島の東側に位置するここ元山(ウォンサン)は、冬でも比較的温暖な気候の漁村だ。
内陸部はここ数年の寒波で不作が続き、田畑を捨てる農民も出ている。それに比べれば暮らしやすい土地だろう。
何より夫の望んでいた「海」が目の前にある。
毎日海を眺める事の出来る場所に来られた、それで私達は充分満足だった。
最初は釜山の日本人居留地に渡ったのだけれど、残念ながら彼は新政府から消息を探られている身。
万一を考えると――用心するに越したことはない。
馬を買って山越え谷越え、こんな所まで来てしまった。
李氏朝鮮と日本にはまだ正式な国交がないので、釜山を出てしまえばもう日本人に会う事はなかった。
突然流れ着いた余所者に意外と好意的だったのは、左之助さんの気さくな態度もあるだろうけど……。
それなりに蓄えがあってちゃんと家と畑を買えたからだろう。頑張って稼いどいてよかったね、左之助さん。
坂を上りきって藁葺き屋根の小ぢんまりとした我が家が見えると、治は繋いでいた手をパッと離して駆け出した。
「父様ー、おかえりなさーい」
「おう、ただいま。いい子にしてたか?」
ひょいと息子を抱き止めた原田は、そのまま肩まで担ぎ上げた。
近づいてくる千穂と目が合うと、笑顔を更に深めて自分も歩み寄る。
「お帰りなさい、お疲れ様」
「薪を二束ほど竈の横に置いて、何本か火の中に突っ込んだついでに汁物を仕上げといたぜ」
「ほんとに!? ありがと、じゃあ急いでお膳を並べるわね」
「急がなくっていい。慌てて転んだらどうすんだ」
左之助は手の届くところまで縮まった距離を更に一歩詰めて、千穂の脇に片手を添え、抱き寄せた。
少し身を屈め、唇を掠め取る。
傾いだ上体から落ちまいと治が頭髪を掴んで少々痛かったが、これがないと家に着いた気がしないのだ。
「体が冷えてるじゃねぇか、早く家に入れ」
「歩いて温まったから大丈夫だってば」
風に晒された頬に大きな手の平を添えればひんやりとしており、かなり長い時間外遊びに付き合ってた事が知れた。
心配性なんだから、と苦笑する千穂を携えて家に入れると、オンドル(※)のおかげでもう部屋は温まっていた。
千穂が箱膳を並べだせば、治が蓋をひっくり返して手伝い始める。
左之助は竈の横から味噌汁の入った鍋を持って来て草履を脱ぎ、自分も部屋へ上がった。
「後で洗うから置いておいてね」
昼餉の後、空になった鍋へ食器を放り込み土間へと運ぶ夫の後ろ姿に声を掛けると、
千穂は満腹でうつらうつらし始めた治を薄い座布団の上に寝かせてふぅっと息を吐き、床へ腰を下ろした。
すぐに戻って来た原田の手には湯飲みが二つ。どこまでも気の回る夫に目尻が緩む。
でも……ハハハ、流石に甘やかされ過ぎよねぇ。
一つを受け取って白湯を口元に運びながら、少し反省したものの。
自分の隣りへどっかりと片膝立てて座った彼の二の腕に、身を寄り添わせた。頭のてっぺんまで幸せにトプンと浸かってる気分だ。
「床があったけぇと昼寝したくなるな」
「治も遊び疲れて寝ちゃったし、私達も少し横になる?」
「だな、水を汲みに行く前に一休みするか」
「毎日ありがとうね」
返事の代わりに大きな手の平が髪を撫で付けてくれた。その手は馬を駆り畑を耕し、水を汲み、そして……時に槍も握る。
といっても穏やかなこの村で何かと戦う事なんてない。山で猪や兎を狩るのに、槍を用いているのだ。
「大分でかくなってきたなぁ、あとどんくらいだ?」
「ふた月ぐらいかな。……そろそろ名前を考えとかなきゃね」
せり出したお腹に目を落とすと、左之助さんの手がそこに添えられた。
そう、上り坂で息が切れるのも、ぐーたら奥様してるのも。この時々中から強く蹴ってくる“二人目”のせいなんです。
私って妊娠と移動が重なる、そんな運命でも背負ってるんだろうか。
妊婦in李氏朝鮮。
これからも行く先々で産むことになったらどうしよ、コンドームがまだ発明されてないのでありえそうで怖い。
※オンドル=韓国式床暖房。竈の煙を床下に廻らせて部屋を温めます。
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