88 分離と別離
羅刹に斬りつけられた傷は、あくる日包帯を取り替える時には一本の筋が残るだけになっていた。
千鶴ちゃんも左之助さんもホッとして喜んでくれたが、包帯で隠して数週間過ごす事にした。
今まで膝を擦りむく位しか怪我をした事の無かった私は、かつて無い痛みや、自分から流れる血に本当にびっくりした。
斬られた人の手当てをした事はあるが、自分が斬られるのは当然生まれて初めてだった。
左之助さんの腹部の傷痕を思い出し、よくまぁ自分であんな事が出来たなぁと今更ながら変な感心をした。
若い頃、切腹の作法も知らない下司だと馬鹿にされ、カッとなってやっちまったと言っていたけど、
短気にも程があるでしょ? 腹立ち紛れに切腹する人なんてそうそういないと思う。
左手が使えない(事になっている)ので、家事は千鶴ちゃんが随分肩代わりしてくれている。
「あの時引っ張ってくれてなかったら、切られてたのは私でしたから。やらせてください!」
と言われ、そんな風に思ってなかったけど、それで気が済むなら、と傷のカムフラージュも兼ねて任せた。
女子の肌に刀傷とは! と心痛めてくれる幹部の面々に、逆に心が痛む。だってもう跡形も無いんだもん。
それを知ってるはずの左之助さんまでもが、傷痕のない腕を見る度にホッとした表情で切られた場所を擦る。
ホント、鬼でよかった。もし普通に痕が残るなら、きっとそれを見る度左之助さんは辛そうな顔をしただろうから。
あれから山南さんと土方さんと伊東さんがどんな会話をしたのか気になったが、誰もその話題に触れないので
知らないままだった。ねぇねぇどうなったのよ、と首を突っ込むほど下世話でもないし、大人の事情なんだろう。
そう解釈して頭の隅に片付けるつもりでいたら、衝撃の一報が入った。伊東派が分離し出て行く、と。
「御陵衛士っつーのを拝命したんだと。簡単に言うと天子様の墓守だ。とうとう動きやがった」
新八さんは忌々しそうに拳を握り締める。
「斎藤と平助まで離隊するなんてな。平助の奴、悩んでたみたいだったが……」
「だからって左之と俺に一言の相談もないなんて、水くせぇじゃねぇか!! あの馬鹿、無い脳みそでっ!」
「だな。だが平助は伊東と同門の上、元々勤王派だ。考え抜いて選んだんだろ。……仕方ねえさ」
二人がこんなにも不味そうにお酒を飲む姿は初めてだった。やるせない気持ちになり、同時に千鶴ちゃんも気掛かりだった。
「ごめん、左之助さんと新八さんはここで飲んでて。私……ちょっと千鶴ちゃん見てくるね」
「ああ、話聞いてやってこい。あいつはとばっちりで辛い思いしてるだろうし。千穂にしか言えないだろ」
部屋を出て探すと、物置の影でしゃがみ込んで泣いてる千鶴ちゃんを見つけた。
「千穂さん! 平助君……もっと広い世界が見たいって。色んな考えに触れて、見識を広げたいって。
私ね、笑顔で送り出したの。頑張ってって応援したいの。でもね、でもっ、本当は行かないでって!
離れるのは嫌だって言いたかった! 泣いて引き止めたかった! だって……だってね、好きなんだもん。
ううっ……。我侭だけど、側に……居たかった……」
絞り出すような最後の言葉に全てが込められていた。好きだから側に居たい。どうしてそんな簡単な事が
叶わないのだろう? 父親は見付からず、好きな人さえ離れてしまった彼女に、なんと声を掛ければいいのだろう。
容易に言葉を選べぬまま、泣き止まない千鶴ちゃんの背中を擦り続けるしかなかった。
結局、あの晩見たものを不問にすることが分離の駆け引きに使われたようだった。伊東さんは最後まで、策士だった。
表向きは友好的分離だが、内実は、今後一切の交流が禁じられた決別だった。
土方さんを信じ、真面目一辺倒の斎藤君があちらに行ったのは違和感が拭えなかったが。
平助君にしろ斎藤君にしろ、裏切ったのではなく、道が違っただけなんだろう。そう納得するしかなかった。
「私、待ちます。絶対いつかまた会えるって信じて。笑い合える日がもう一度来るって信じて。
平助君が、千鶴お待たせって言ってくれるのを信じて。……待ちます!」
千鶴ちゃんの瞳は揺るぎなかった。
そうだよね、信じよう。意志が未来を作るのだから。
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