その日の仕事を終え、自室に戻る。パタンと小さく鳴ったドアの音がやけに静かに聴こえた。
ネクタイを緩めているとミュウがそっと擦り寄ってきて、足元で甘える。まだぎこちない手つきで抱き上げるとみゃあと小さく鳴いた。
「お前みたいに…ここに居てくれれば、な」
苦笑いを一つ。
と、その時。ドアのノック音が聴こえた。
…このノックは。
ミュウをそっと下ろして静かにドアを開ける。
勿論、そこには彼女が立っていた。
「奏様…」
そっと彼女の名前を呼ぶ。あのノックが聴こえた時点で彼女だとわかっているはずなのに。
「こんばんは。あの…今、大丈夫ですか?」
自分の反応を気にしたのか、おずおずと彼女は言う。
「勿論ですよ。外は冷えます、どうぞ中へ」
いつもの笑顔を作る。どうしてだろう、今は作らなければこの笑顔が上手く出てこなかった。
「お邪魔します」
安心した笑顔で彼女が応える。
後ろでミュウが小さく鳴いた。
特に会話もないまま、時間が静かに過ぎていった。
自分からは…上手く話せなかった。あの時の事が気になって上手く言葉にならない。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。
そんな時、彼女がやっと口を開いた。
「あのね、要さん」
「なん…ですか?」
目線を合わせず彼女はそっと言葉を続ける。彼女の言葉に返事すら上手く返せない自分がなんだか情けなく感じた。
「何か、ありました?」
「…え?」
思いがけない言葉だった。その言葉を告げると彼女はどこか心配そうな笑みを浮かべる。
「今日の要さんはちょっと変だってみんなが言ってたから。何か知らない?って聞かれたの」
「そうだったんですか…」
自分はそんなにまで冷静さを欠いていたのか。
「どこか調子悪い?大丈夫?あ、何もなかったら…ごめんなさい。変な事聞いちゃって」
彼女はだんだんと心配そうな顔になる。
そんな顔を見ていたら…いてもたってもいられなくなった。
返事をする代わりに少し強引にぎゅっと彼女を抱きしめる。
「か、要さん?どうしたんですか?」
「…今日」
腕に少しだけ力を込める。彼女を離さないように。
「学校帰り、誰と歩いていたんですか?」
小さく呟くように聞く。でも、充分だろう。彼女の耳元はすぐ近くにあるから。
「…!」
少し驚いたような反応。
「彼とどこに行っていたんですか?」
質問を畳み掛ける。一度流れ出した感情は止まらなかった。
「街中で、誰かと歩く奏を見ました」
「…そうだったんだ」
彼女は一言そう呟く。今、どんな顔をしているんだろう。気になったけれど、見る勇気もない。
「それが…気になって気になって…」
いっそ、このまま彼女をずっと離さずに居れたら。どんなに楽になるだろう。
でもそれは、自分の本当にしたいことじゃない。したいことじゃない。
「ごめんね?要さん」
彼女は一言謝る。それが何を意味するのかはわからなかった。考えたくはなかった。
「どうして謝るんですか?」
「だって、要さんを苦しめちゃったもの」
そんなつもりはなかったんだけれど、と彼女は続ける。
「奏…」
「でも、心配することなんてないんだよ?彼は学校のクラスメイトで、ちょっと場所を聞いていただけなの。親切にそこまで案内してくれたんだけれど」
「…」
黙って彼女の言葉を聞く。上手く、言葉にならなかったから。
「探し物があったんだけれど、どこにあるかわからなくって。たまたまその話を席の近い彼に聞いたら知っていたから。教えてもらったんだ」
「…本当に、それだけ?」
やっと出た言葉はそれだけだった。
「それだけだよ?」
「本当に?」
「本当。だって…―」
と何かを言いかけて彼女ははっと口元に手をやった。まずいといったような顔をして。
「…だって?」
そんな彼女の目を見て続きを催促する。口元にやった手をそっと外しながら。
「…言わなきゃ…ダメ?」
上目遣いで恥ずかしそうに言う彼女。
「…ダメ」
だって、気になったから。奏のことはなんでも知っていたいと思う自分が居たから。
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