演奏会は実に厳かに始まった。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ 第9番 イ長調「クロイツェル」、サン=サーンス/ヴァイオリン協奏曲第3番…。作曲者の名前くらいしかわからない曲も自然と耳に心地良く入ってくる。
他にも聴いているだけで、きゅっと切なくなったり、楽しくなったり。
クラシックも…奥が深いんだなぁなんて、わからないなりに考えたりした。
「次の曲、なんだろう」
拍手の後の小さな小さな呟き。
そっとパンフレットを手に取ろうとした時だ。
「クロード・ドビュッシーの夜想曲だよ」
「え?」
耳元で響いた声。
落ち着いた、そしてどこか大人びたその声に思わずドキリとする。
「管弦楽曲の。ノクターン」
「ノクターン…?」
「ショパンの夜想曲…ノクターンが一番有名だけれどね。この曲も結構有名だから、聴いたことあるかもしれないよ」
淡々と続くその言葉。
そして、「ありがとう」と返事をしようとした時…そっと演奏が始まった。
「んー!」
会場を後にし、歩きながら私はぐっと伸びをした。
「疲れた?」
「少しだけ、ね。やっぱりずっと座ってたからかな?」
「ははは。奏は、まだまだだね」
意地悪な笑みを浮かべるハリスくんは、私のすぐ隣。
「でも、やっぱりすごいね、ハリスくんって」
「なんで?」
「色々な曲、知ってるんだなぁって」
「まぁ…ね」
「後ね。実は意外!って思ったりもしたんだ」
「え?」
そう。その気持ちは…誘われた時から思っていたことでもあった。
「こういう感じよりも、ライブハウスとかのイメージが強かったから」
「ははは。そういうことか。僕だって、演奏者だ。こういう所だって、来るよ」
「ふふっ。そうだよね」
ふぅと一つ息をつく。
もう3月と言っても、まだ春と言うには少しだけ肌寒くて。
すっと吸い込んだ空気がひんやりと火照った身体を冷やしていく。
「…あのさ、奏」
「何?」
急に改まったようなその言葉に、私は思わずハリスくんの顔を覗き込む。
「退屈…とかじゃなかった?」
「え?」
そして、私が見たものは…どこか弱々しく見えたハリスくんの表情だった。
「誘ったは良いけれど…少しだけ気になっていたんだ。こういうのは、苦手な人だっているから。だけれど」
「けれど?」
「奏に知って欲しかったから」
止まる歩み。
振り向けば、真っすぐに私を見つめる瞳。
真剣。
その言葉しか、今は似合わない。
「知って欲しい?」
「そう。これも、僕だってこと」
どこか不安げなその表情と震えた声。
ふっと息を一つつくハリスくんに、思わず背筋をピンと伸ばした私。
「バレンタインデーの時さ」
「…うん」
「本当は、すごく…ドキドキしたんだ」
「…」
「ただ、渡すだけなのにね。それと」
「うん?」
「すごく、嬉しかったんだ。奏からのチョコレート」
傾きかけた陽の光のせいか、それとも違った理由からか。
ハリスくんの頬は赤く染まっていた。
「ねぇ?」
「…何?」
「…しっかり、聞いててくれる?」
「え?」
聞き返したのが早かったか。それとも、「それ」の方が早かったか。
…チュッ
リップ音が耳元に届く。
そして。
「奏が…好きだ。だから、知って欲しかったんだ」
止まった世界と思考回路。
先に理解したのは頭よりも感情。
だって、ほら。
こんなにも頬が熱くなる。
私も、
私も好きだよ。ハリスくん。
色々な表情を見せてくれる、君が好き。
これからは、もっと見れるよね?
それは、ホワイトデーに起こった奇跡?
ううん。
多分…―
―Fin―
→あとがき
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