拍手SSまとめ | ナノ
3/12更新分


恋に落ちる、というのは、こういうことをいうのだと思った。

その日、園芸委員の花壇整備当番を終えて荷物を取りに教室へ戻る途中だった私は、どこからか微かに聞こえてくるピアノの音に気付いてふと立ち止まった。特別音楽に興味があるわけでもない。それなのに、足は勝手に音の出所を探って階段を上り始めていた。
学校で、ピアノ。といえばもう音楽室しかない。三階まで一気に上ったことで、運動不足気味の私は少しだけ息が乱れてしまった。でも、ピアノの音は確実に大きくなっていて、予想は間違っていないみたいだった。
少しだけ息を整えてから、音楽室のほうへ歩き出す。誰もいない廊下には柔らかな西日が差し込んでいて、漏れ聞こえてくるピアノの音色が溶け込むその風景は、いつか見たお洒落な洋画を彷彿とさせた。
ドアのガラスからばれないようにそっと中をのぞくと、ピアノ本体と開かれた屋根の間に金髪の男の人の顔が見えた。あの人は確か、よく校門に立って服装チェックをしている風紀委員さん。元気な人なんだろう。騒いでいる姿をたまに見かけた程度しか面識のない私は、ぼんやりとそう思っていた。でも、伏し目がちにピアノを奏でるその姿はとても儚く、綺麗で。
音楽にはあまり詳しくはないけれど、難しい曲ではなかったと思う。けれどその優しく心を撫でるような音色に、私の胸はドクンドクンと甘く高鳴った。それは私がいとも簡単に、生まれて初めての恋に落ちた瞬間だった。


我妻先輩は、今日この学園を卒業する。
出会いの次が別れだなんて、私の恋がもし物語になったとしたら、中身が飛びすぎていてとても読めたものではないだろう。
でも、ないのだ。語るべき思い出が。どうしても勇気が出なくて、時折見かけるその姿を、遠くからそっと見つめることしかできなかった。時間は、たくさんあったのに。
あの日音楽室にいたのもたまたまのようで、優しいピアノの音色を聞くこともそれから一度もなかった。

二列に整列した在校生たちの間を、卒業生たちが、我妻先輩が、笑ったり泣いたりしながら通り過ぎていく。交友関係の広い我妻先輩は、少し進むごとに沢山の人たちから話しかけられ、背中をたたかれ、髪をくしゃくしゃにされていた。両手いっぱいの花束を受け取って、嬉しそうに笑っていた。
その姿が私にとってはあまりにもまぶしすぎて、目の前を通り過ぎていく時にはついに顔を上げることさえできないまま。昨日花屋で見かけた、なけなしの勇気を振り絞って用意した紫色のライラックの花束を胸に抱きしめて、けれどそれ以上のことは何もできずに、その他大勢の在校生であり続けることしかできなかった。

卒業生たちを式の会場である体育館から校舎へ導く見送りの花道も終わり、それ以上用のない生徒たちから各々教室に戻っていく。在校生は自由解散なので、クラスで最後のHRを終えて出てくる卒業生たちを待つわけではないのなら、あとは鞄を取りに行って帰るだけだ。
私は、どうしようか。厳密にいえば、用がないわけではない。でもこれまで一度も話しかけることさえできなかった私に、お祝いの花束を渡すなんて大それたことができるはずない。それでも私は諦めきれなくて、帰らないの?と声をかけてきてくれた友人たちに待ってる人がいるのと別れを告げ、わいわい騒いでいる他の在校生たちを遠く眺めながら校舎のそばで一人ぽつんと佇んでいた。そのまま、どれくらい時間が経っただろうか。

「君、大丈夫?すっごく泣きそうな音…いやえっと、顔、してるけど」

胸がドクンと跳ねた。話しかけてくれたのは、今まさに校舎から出てきた我妻先輩だった。気付けばほかの卒業生たちも、どんどん出てきている。その中で我妻先輩はわざわざ足を止め、その太めの眉を下げて心底心配そうに私を見ていた。突然すぎて、緊張で喉に声が張り付いてしまいうまく言葉が出てこない。混乱する頭を必死に動かして、当たり障りない表現を探す。

「大好きな先輩が卒業してしまうんです。だからだと、思います」
「そっかあ…」

もともと告白する気はなかった、もう、何も言わずにただ花束を渡して逃げてしまおうか。こんなチャンス、きっと二度と訪れない。迷っていたら、我妻先輩の目が私が抱えているライラックの花束をちらりと見たのがわかった。

「それ、渡さなくていいの?俺が呼んできてあげよっか?」

先輩にとって私は見ず知らずの後輩だ。なのに、そんな人間にここまで優しくできるものなのか。私はずっとたった一瞬の思い出にしがみつくばかりで、好きな人の素敵なところさえほとんど知らないままだった。
やっぱり、だめだ。こんなに優しいこの人に、私の身勝手で一方的な想いを押し付けることなんてできない。善逸ー?と、遠くから先輩を呼ぶ声がする。私は今できる精一杯の笑顔を浮かべて、我妻先輩を見上げた。

「…いいえ。気にかけてくださってありがとうございました。ご卒業、おめでとうございます」

ぺこりとお辞儀をして、踵を返す。後ろは振り返らなかった。また一気に階段を上って辿り着いた三階の音楽室は、卒業生たちが自由に校舎内を見て回れるよう、施錠はされず開け放たれていた。
あの日とは違って誰もいないそこに足を踏み入れ、同じく閉じられたままの屋根をそっと撫でる。その上にずっと抱きしめていたライラックの花束をのせて、私は音楽室を後にした。

そうして私は初めて恋に落ちたその場所で、あまりにも未熟すぎたそれに別れを告げた。


.
.
.



「紫のライラックの花言葉ってさ、『初恋』なんだよな」

花束が詰まった紙袋を片手で弄りながら俺がそう言うと、合流した炭治郎が不思議そうに目をぱちぱちさせた。

「突然どうしたんだ?それに、花言葉なんてよく知ってるな」
「そりゃおさえてるに決まってんでしょうよ。女の子はそういうロマンチックなやつが好きなんだから、覚えといて損はないのよ。いつ役に立つかわからんでしょうが」

そ、そうか、と苦笑いされたけど、俺は気にせず周囲をくるりと見渡す。たくさんの同級生たちが、友との別れを惜しんで泣き、そして笑っていた。

「あの子、この中の誰かに『初恋』してたのかなぁ」

さっきほんのちょっと話しただけの、名前も知らない女の子。人がたくさん居すぎてその対象を見つけて連れて行ってあげることはできなかったけれど、あの子の初恋がせめて、いつかいい思い出だったと振り返ることのできるような優しいものであればいいなと思った。卒業する俺たちを祝福するように、綺麗に咲いた梅の花が暖かい風に優しく揺れていた。



[戻る]
×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -