パン屋の息子とパン屋の娘 | ナノ

06 仲直りのつぶあんパン


「なまえ、ちょっと降りて来なさい」

部屋で漫画を読みながらごろごろしていたら、階下からママの呼ぶ声がした。その声の硬さで、聞く前から話の内容がなんとなくわかった気がする。小さく息を吐いて漫画を置き、部屋を出て一階に降りると、食卓についたママが私を待ち構えていた。夕飯の準備をしている途中だったらしいお婆ちゃんが、台所の方から心配そうにこちらを伺っている。

「あなた、また他所様のお店にご迷惑おかけしてるんですって?最近よく話すようになったご近所さんが教えてくれて、ママ顔から火が出るかと思ったわ」

いくら平日は遅くまで働きに出ているといっても、あれだけ派手に立ち回っていたら私の行動がママの耳に入るのは時間の問題だろうなとわかってはいた。やっぱり。そう思いながら、居間の入り口に直立してママと目が合わないように食器棚の方へ視線をやり続ける。

「悲しいのはわかるけど、パパはもういないのよ。そろそろ現実を受け入れて、前を向かなくちゃ。たとえそれが難しくても、他所様に迷惑をかけていい理由にはならないの」

私は、口を固く閉ざして何も返さない。目を合わせようともしない私に、ママが重いため息を吐いた。

「…はぁ。とにかくママは今から竈門ベーカリーさんに謝ってくるから。詳しいことはあとで話しましょう」

あなたはもうあのお店さんには行かないこと。いいわね?
それだけ言うと、ママはデパートの紙袋を持って私の横を通り過ぎ、居間を出て行った。ガラガラガラ、ピシャン。引き戸が開き、閉じた音が、ママが本当に竈門ベーカリーへ向かったことを知らせてくる。
あとで話そう。パパがいなくなってから、ママはいつもそう言う。でもママはずっと忙しそうにして、口を開けば「もう立ち直りなさい」といつもそればかり。私の話なんて、結局聞いてくれない。

ずっと張りつめていたものが、ブツンと切れた気がした。「なまえちゃん!?」とお婆ちゃんの慌てる声が背後で聞こえたけれど、足を止めずに家を飛び出す。家と、学校と、竈門ベーカリー。この3つだけを行き来していたから、この街の地理は一か月経った今でも全くわかっていない。家にはいたくないけれど何処に行けばいいのかも定まらなくて適当に走っていたら、気づけば小さな公園の前まで来ていた。ここは、引っ越してきて最初の日にパンを食べた、あの場所。古びた電灯が白い光を頼りなく放っている。
ふらふらと歩みを進めて、椅子が二つあるうちの手前のブランコに腰かけた。すっかりあがってしまった息を整えながら、地面に足を付けたまま少しだけ揺らしてみる。キイ、キイ、と、十分に油のさされていない錆びた鎖が音を立てた。それでも構わずゆらゆらと揺れながら、私は自分のつま先をただただ見つめていた。もう何も、考えたくなくて。

しばらくして、ふと、人の気配がした。今ここにいる私が言うのもなんだけど、こんな時間に公園に来るなんて、まともな奴じゃないかもしれない。緊張感で体をこわばらせながら慌てて顔をあげると、そこにいたのは、ハァ、と肩で息をしている竈門炭治郎だった。

「…なんで、ここに」
「泣いてるなまえの匂いがしたから」

よくわからないことを言う。でも意味を尋ねるよりも先に、私は顔を背けた。ちらりと公園の時計を見上げると、19時15分を少し過ぎたところだった。

「ママから全部聞いたんでしょ」
「…うん」

時間的に考えてもきっとそうだろうと思った。よくわからないのはいつもならこの時間は閉店作業をしているはずの竈門炭治郎がなぜここにいるのかということだけど、ママの話を聞いていてもたってもいられなくなったこのお人好しが、私と話をしようと飛び出してきたんじゃないかとなんとなく思った。だから私は何かを言われてしまう前に、一方的に話を始めることにした。

「私、もうパン屋の娘じゃないの。パン職人だったパパは死んじゃったから。だから、竈門くんのことライバル視するなんて、最初からお門違いだったってわけ。難癖付けてお店に居座って、たくさん迷惑かけてごめんなさい」

謝罪にふさわしい態度じゃないなんてことはわかっている。でも、顔をあげられるわけがなかった。ずっと考えることすら嫌だった事実を、口にするだけでもう精一杯だった。きっと今、私は酷い顔をしている。
それでも竈門炭治郎は臆することなくこちらへ近づいてくる。すぐそばで、砂を踏むジャリ、という音がした。

「迷惑なんてかけられてないよ」

どこまでも優しい声だった。喉が勝手にきゅっと痛くなる。隣のブランコがキィと揺れて、竈門炭治郎がそこに腰かけたのがわかった。横目でちらりと様子を伺うと、奴は右手に持っているビニール袋を持ち上げながらこちらを見ていた。

「腹減ってないか?腹が減ってると悪いことばかり考えてしまうからな。余り物で申し訳ないんだけど、パンを持ってきたんだ。食べるか?」

突然何を言い出すんだと思わず顔をあげれば、陽だまりのような笑顔がそこにあった。竈門ベーカリーのパン。そう思うとついさっきまで全く感じていなかった空腹感が急に首をもたげて、私はおずおずとその袋を受け取る。中をのぞくと透明のビニールに包まれたいくつかのパンが入っていたけれど、私の手は迷うことなく“それ”を掴み出していた。

「あん、ぱん……」

セロハンテープをピリと剥がしてビニールから少しだけ露出させた部分にかぶりつく。柔らかなパンの食感と餡子の甘味が口いっぱいに広がった。大好きなつぶあんの、あんぱん。
咀嚼しているうちに、何故だかどんどん涙があふれてくる。どこまでも優しくてあたたかいパンの味と一緒に、もう二度と会えない筈のパパの声がどこかから聞こえたような気がした。

『ほぉら、あんぱんだ。それ食べてお腹いっぱいになったら、ママに謝っておいで。どうだ?美味いか?パパのパンは世界一だろ』

「……パパ。パパぁ…!!」

今食べているのは、パパのパンじゃないのに。竈門炭治郎が焼いたパンなのに。どうしてだろう。ぼたぼたと涙の止まらない瞳を閉じれば、世界で一番大好きなパパの笑顔が鮮明に浮かぶ。嗚咽があふれてそれ以上食べられなくなってしまったあんぱんを両手で持ったまま、私はずっと胸の内にあった葛藤まで涙と一緒に吐き出していた。

「本当はわかってるの。もうパパはいないってちゃんと受け入れないといけないことも、早く前に進まないといけないってことも!」

竈門炭治郎は何も言わない。どんな表情をしているのかはわからないけど、じっと聞いてくれている気配だけはする。

「でも私、竈門くんみたいに上手くなんてできないよ…」

彼だって、たくさん悲しんで立ち止まって、それでも前を向いたんだろう。あの日、寂しくないと言えば嘘になると漏らした竈門炭治郎は、悲しい微笑みを浮かべていたから。彼が陰でどれほど努力したのかも知らないまま自分と比べて、あまつさえそれを本人に伝えるなんて、するべきことじゃないとわかっているのに止まらなかった。
悲しさを振り払って、毎日がすごく楽しいと淀みなくまっすぐ言ってのけた彼の強さを、心から羨ましいと思ってしまっていたから。そして私は、そんな自分のことがもっともっと嫌いになっていく。

「私の態度がママを傷つけてるってことも、ちゃんとわかってるの。でも、パパが死んで、一緒に悲しんでくれないママのことが、あっという間にお店を処分しちゃったママのことが、どうしても許せなかった!私のこと、この先もちゃんと育てていかないといけないって、悲しむ暇なく踏ん張ってくれてるんだってこと、本当はわかってたのに。でも、でも…」

意地っ張りで可愛くない性格の私は、小さいころからよくママと喧嘩をしていた。お店の隅で三角座りをして不貞腐れている私に、パパはいつも優しく微笑んで、ママには内緒だよと言いながら大好物のつぶあんぱんをくれた。それを食べるといつも心がふかふかになって、ごめんなさいと素直に謝ることができた。

前を向きたいけど心が痛くて先に進めないのだと、だからママと一緒にパパの話がしたいのだと、素直に伝えるだけでいいというのは頭では理解していた。けれど、いつまでもつまらない意地を張り続けてしまう私の心を見透かして、背中を押してくれたパパはもういない。
それに、そんなにパパの店を失いたくなかったなら、私も竈門炭治郎みたいに自分がパン職人になるくらいの覚悟を見せればよかったんだ。そんな発想すらなく、ただいやだいやだとわがままを言い続けた私は、どこまでも幼いただの子供でしかなかった。

泣きすぎて頭がジンジンする。もう何も言葉にならなくて、ずずっと鼻をすする音だけが公園に響く。滲む視界に、綺麗に折りたたまれた薄緑色のハンカチが唐突に現れた。驚いて顔をあげると、竈門炭治郎がそれを差し出しながら、優しく目を細めて私を見つめていた。

「前の向き方は人それぞれだから、急ぐ必要はないんだ。少なくとも俺は迷惑なんて全然してないし、むしろ、なまえがいてくれてすごく助かってる。うちの店で良ければいつでも来てくれて構わない。もちろんただ座ってるだけでいいから」

「なまえは“パン屋”が好きなんだろう?」と言われて息をのむ。この男にはどうやら全て見透かされているらしい。ライバル店を見張ると言い訳をして、ただその“パン屋”という空間に身を置いていたかっただけだという本当の気持ちが。
すべてを包み込んでくれるような澄んだ赤い瞳を見ていたら、私はいつの間にか素直に「何から、始めればいいのかな」と口にしていた。差し出されたハンカチをそっと受け取ると、竈門炭治郎は「うーん、そうだなあ…」と少し考えるようにしてからにっこりと微笑んだ。

「まずはお母さんと仲直りしてみないか?大丈夫だ。なまえならきっとできる」
『さあ、ママのところに行っておいで。大丈夫だ。なまえならきっとできる』

その優しい笑みが、大好きだったパパのそれと重なって見えた。同い年の男の子にいい年したオジサンの姿を重ねて見るなんて、あんまりかな。全て吐き出してしまったからだろうか、そんなどうでもいいことまで考える余裕が生まれていた。それは全部、私の話をじっと聞き続けて、無理に鼓舞するのではなく私なりの早さでいいと言ってくれた竈門炭治郎のおかげ。
ぽろりと零れた涙を最後に、借りたハンカチで頬を拭いてから、鎖をガシャンと鳴らしながら立ち上がる。多分今頃、お婆ちゃんはめちゃくちゃ心配してるだろう。もしかしたら、いや絶対かな、ママも、きっと。

「…かえる」
「うん。送っていくよ」

唐突すぎる私の行動にも竈門炭治郎は何一つ文句を言わずについてきてくれた。無言で歩く帰りの道のりはあっという間で、家の前で立ち止まってから「ここがうちだから、」「うん」と短く言葉を交わす。

「ねえ、このパン、もらってもいい…?」
「ああ、もちろん!そのつもりで持ってきたんだ」

かさりとビニール袋を揺らしながら尋ねると、なまえはパンが好きだから少しでも元気になってくれたらと思って、とまたもや優しく微笑まれた。それが照れくさくてどうしようもなかったけど、今度こそ感謝の気持ちをちゃんと伝えたくて、きっちり正面に立って彼を見上げる。

「ありがと。食べさせてもらうね。…仲直りした後、ママと一緒に」

竈門炭治郎が少し目を見開いた後すぐ嬉しそうに笑ってくれたから、私も自然に笑い返すことができた。意地を張って逃げてばかりだった私でも、ようやっと新しい一歩が踏み出せる。そんな気がした。

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