パン屋の息子とパン屋の娘 | ナノ

05 クロワッサンと彼女の秘密


最近、とても気になっている子がいる。
彼女は一か月ほど前に同じクラスに転校してきたばかりで、席がたまたま隣になったことからよく話すようになった。その子のお父さんもパン職人らしく、ライバル視されていると知った時には少し驚いたが、心底悔しそうに「美味しい…」と俺が作ったパンを頬張る姿は何とも言えない可愛さがある。最初は刺々しかった態度も今は随分軟化していて、一か月で結構仲良くなれた、と俺は思っている。
それに彼女は最初からとてもやさしい子だった。野生の勘が鋭い伊之助が出会った初日からかなり懐いていたのでいい子なのはすぐにわかったけれど、俺が彼女を少しずつ特別視するようになったきっかけは茂が熱を出した時に店番を代わってくれたこと。
お客として通っていた店、しかも出会ってたった三日しか経っていない同級生の店を、彼女は寸分も迷うことなく手伝うと言ってのけた。緊急事態だったとはいえあんなに素早く的確なフォローのできる人間がそんなにいるだろうか。看病を終えてから急いで店に戻り善逸が彼女の両手を握りしめているのを目にした時は、気持ちより先に体が動いて、気づけばその手を引きはがしていた。

多分俺は彼女、みょうじなまえのことを女性として好きになりかけているのだと思う。…いや、もしかしたらもう、好き、なのかも。この間みんなでちぎりパンを食べたときも、なまえが善逸の隣にならないようつい牽制してしまったし。
けれどなまえには不思議に思う点がいくつかあった。

まず、平日は毎日閉店までうちの店を手伝ってくれているが、パン職人をしているというお父さんのお店の方には行かなくていいのかということ。手際の良さから見るに、以前からパン屋の手伝い、もしくはアルバイトを常日頃していたんだと思う。
なまえはうちの店を手伝ってくれている理由を「『この街一番のパン屋』が不甲斐ない体たらくを晒さないよう見張ってるだけ」と言うが、引っ越ししたばかりでバタバタしているだろうに、お父さんの手伝いをしてあげなくていいのかと心配になってくる。新しくパン屋が開店するという噂は聞かないし、既にあるどこかの店で勤務しているから手伝う必要がないだけなのだろうか。

そしてその、なまえのお父さんについて。なまえはお父さんがパン職人でかなりの腕前を持っているということ以外、家族についてあまり話さない。土日は何をしているのか尋ねたら「ママがうるさいから家にいる」と言っていたが、聞き出せたのはそれくらいだ。
それになまえは、俺の父さんがもういないことについて、何故かかなり気にしている節があった。あの日なまえが見せた切ない横顔と、苦しそうな匂いが、俺はずっと忘れられないでいる。なまえのお父さんは会えないくらい遠いところにいるのか、それとも、もしかしたら……。


**


時刻は19時を回り、今日の営業も無事終わった。ドアにかかった札を『close』にしたあと外窓のブラインドを下ろしてくれているなまえに、カウンターの中から「今日もありがとう。お疲れ様」と声をかける。すると彼女は少し恥ずかしそうにしながらも「ん。お疲れ様」と返してくれた。いつかの未来、もし二人でこの店をやっていくことになったら、毎日こんな感じになるのだろうか。飛躍しすぎた妄想が一瞬頭をかすめて、俺は慌ててレジ締め作業に戻った。
最近はなまえが店にいてくれるからその分母さんの手が空いて、構ってもらえる時間が増えた六太たちはとても嬉しそうにしている。アルバイト代はいらないと頑なに受け取ってくれないけれど、やっぱり今度何かしらお礼をしないとな…。
そう考えていると、値札とPOPを整理してくれていたなまえが「ん、」と何かに気付いて声をあげる。手にしていたのはこの間花子が作ってくれた、『はじめまして!』と大きく書かれたクロワッサンのPOPだった。

「クロワッサン、リニューアルするの?」
「ああ、そうなんだ!最近は層の少ないものも人気があると聞いたから、試しに出してみようと思ってな」
「ふぅーん。今のでも十分美味しいのに、竈門くんは努力し続けててえらいね」

最近のなまえはこうやって俺をストレートに褒めてくるから困る。ふいにそんな笑みを見せられたら、思わず頬が熱くなってしまうので勘弁してほしい。誤魔化すように小銭を数えるのに集中してみせるふりをしながら、ふと思いついたことをなまえに尋ねてみた。

「なまえのお父さんが作るクロワッサンは何層のものが多いんだ?24層か?」

手元から顔をあげなくても、途端に香った匂いですぐに分かった。なまえはきっとまた、あの時と同じ切ない表情を浮かべている。
やっぱりそうだ。なまえはお父さんの話題になると、この匂いをさせる。
けれど彼女は何でもないようにふっと笑って「そんなの、ライバルの竈門くんに言うわけないじゃん。ひみつ」と言いながら値札たちをケースにしまう。「あとはもう大丈夫?」と聞かれたので慌てて「大丈夫だ!」と答えると、なまえはエプロンを脱ぎ、すっかりきれいに整頓された店内を残して今日も帰っていった。
まずい。今日は金曜日だから、次に会えるのは月曜日になってしまうのに。微妙な空気で別れることになってしまった。客観的に見て、変なことを聞いてごめんと謝るような内容でもないし、彼女も月曜になったら特段気にせずまたここに来てくれるのだろうけど。俺自身がもやもやと落ち着かない週末になりそうだ、と小さくため息を吐いた。

けれどその心配は、次の日起きた出来事を経て全くの的外れになる。

平日とはまた違う賑わいを見せる土曜の営業を無事に終えて、母さんと二人でそろそろ閉めようかと話していた時だった。暗い顔をした女性がカラン、と音を立てて店内に入ってきた。いらっしゃいませと声をかけたけれど、どうやらパンを買いに来たわけではないらしい。女性はデパートのロゴが印字された紙袋の持ち手を両手で握りしめて、俺たちに深々と頭を下げた。

「こんな時間に申し訳ありません。みょうじなまえの母です」

なまえの、お母さん…?ぎょっとして、突然どうされたんですかと、頭を上げてくださいとお願いをする。何とか体は起こしてくれたけど、女性はまだ暗い表情のままだった。

「娘がこのお店様にご迷惑をおかけしていると聞きまして、お詫びに参りました。お恥ずかしながら引っ越したばかりで十分に目が行き届いておらず、気付くのが遅れてしまって…。大変申し訳ありませんでした…」

また頭を下げようとするなまえのお母さんに、カウンターの中にいた母さんが慌てて出てきてそっと寄り添うように制止した。

「いいえ。迷惑だなんてそんなことは全くありませんよ。なまえさんはいつもお店のことをたくさん手伝ってくれてますし、子供達とも仲良くしてくれて、すごく助かってるんです」

なまえのお母さんの表情が少しだけほっと緩んだ。それから少し迷うように視線を彷徨わせた後、「あの子は、自分の父親のことを何か話していましたか…?…例えば、自分の父親が作るパンの方が美味しいとか、そういったことを」と呟く。母さんが俺の方を見たので、口元に握りこぶしを当てて、桜から聞いた数少ないお父さんの話を思い浮かべた。

「ええと…確か初めて会ったときには、『街一番のパン職人は私のパパで、パパが作るのと比べたらあなたのお店のパンなんて足元にも及ばない』…と言っていたような」

あの日指をさされたときのことを必死に思い出してそう言うと、女性はハァとため息を吐いて目を閉じ、額に手をやった。母さんはその様子を心配そうに見ている。

「やっぱり…。またあの子はそんなことを…」
「…また、とは…?」

「あの子の父親…、主人は、二ヶ月前に亡くなったんです」

なまえの、お父さんが。
ずっと不思議に思っていたことの答えが、全部わかったような気がした。何かを考えないようにするためなのか、見張っていると理由を付けてただひたすらうちの店に通い続けていたこと。俺の父さんがもういないと知った時のあの反応。そして、なまえのお父さんの話をしたときの表情と、匂い。

「だから店を引き払って、私の実家があるこの街に引っ越してきたのに、あの子はまだ現実を受け入れられていなくて…。元居た街でも近所にあったパン屋さんで同じようなことをして、少し問題になりまして…」

そう言ってなまえのお母さんは手にしていた紙袋を母さんに差し出した。

「これ以上ご迷惑をおかけしないようによく言って聞かせます。もうお店に来ることもないように致しますので、お許しいただければ幸いです。本当に申し訳ございませんでした…」

母さんが、気にされなくて大丈夫ですよと宥めても、なまえのお母さんは引き下がろうとしなかった。最後にもう一度深々と頭を下げてなまえのお母さんが帰っていったあと、結局受け取ってしまった紙袋の中を確認すると、高級そうな包装紙に包まれた菓子折りが入っていた。お詫びの品、ということだろう。
何も言えずその菓子折りをじっと見つめていたら、母さんの手が俺の肩を優しく撫でた。

「…炭治郎。行っておいで」
「! 母さん、でも…」
「お店のことはいいから。なまえさんのことが、気になってるんだろう?」
「…っうん、ありがとう母さん!いってきます!」

迷惑なんかじゃ、ないのに。あの様子じゃきっと、なまえはお母さんに叱られてしまう。いや、もう叱られてしまった後だろうか?なんにせよなまえがもうこの店に来なくなるなんてことだけは、避けなければ。それに、話したいこと、聞きたいこともたくさんある。
母さんの優しい笑顔に見送られ、俺はふと目に入った残りのパンを詰めたビニール袋を手にして店を飛び出した。

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