思えば嘴平様と二人きりになるのはこれが初めてのことだった。
善逸様の薬を持って病室を訪れたが目的の人物はおらずもぬけの殻。
とりあえず寝台脇の机に薬を置いていると、背後に誰かの気配を感じた。
善逸様が帰ってきたのかと振り返ったら、そこにいたのは嘴平様だった。
「おかえりなさいませ」
「あん?ひとりか、珍しいじゃねえか。紋逸はどこ行った」
「わかりません。お薬の時間なので探さないと」
屋敷の中にいるとしたらまたお饅頭を狙ってお台所のあたりか、もしくは禰󠄀豆子様に寄り添っておられるのかも。
外に出てしまっていたとしたら…甘味処か…?
行先の心当たりを頭の中に巡らせていたら、突然ぐっと握られた手が目の前に現れて少し驚いた。
「なんでございましょう?」
「両手出せ」
「…はい」
「ん。やるよ」
嘴平様の拳から手のひらにころんころんと転がってきたのは、いくつかのまるまるとしたどんぐり。
「とっても艶々で綺麗などんぐりでございますね」
「へへっ、そうだろう!裏山で大量に見つけたから子分共にもわけてやってんだ、なんせ俺は心優しい親分!だからな!!」
むんっと胸を張る。
ここに来た初期の頃はすっかり萎れてしまっていたけれど、元気を取り戻してくださって良かった。
「ありがとうございます。嘴平様」
「だああっ!かゆい!伊之助様と呼べ!親分伊之助様だ!」
びしり、と指をさされる。
なるほど。鬼狩り様からの求めだ、すぐに認識を改めよう。
「親分伊之助様、でございますね」
「そうだ!ムハハハハ!かっこいいだろう!」
「はい」
「おっ、楽しそうだなあ!俺も混ぜてくれ!」
次に病室へ戻ってきたのは竈門様だった。
親分伊之助様にもしたように「おかえりなさいませ」と言えば、溌剌とした笑顔で「ただいま!」と返してくださる。
休憩時間だろうか、ある程度手ぬぐいで拭かれてはいるものの、額にはすこしだけ汗が滲んでいた。
「なにがかっこいいんだ?」
「これから親分伊之助様と呼ばせていただくことになりまして」
「そうなのか!じゃあ俺のことも是非、炭治郎と呼んでくれないか?俺もなまえと呼ぶから」
「承知致しました」
「竈門様呼びは慣れなくて少し恥ずかしいなと思っていたんだ」と頬をかく竈門様、改め炭治郎様。
…気付いていなかった。呼称ひとつでそんなにも居心地の悪さを感じさせてしまっていたとは。善逸様もそうだったのだろうか。だから、あの夜に。
私は善逸様と交際している身。だから今ここにいる。
しかしそれと同時に、藤の花の家紋の家に生まれた者として鬼狩り様皆様のお役に立つことも大切な使命だ。
善逸様のお世話の合間に蝶屋敷のお手伝いは常日頃させていただいているけれど、炭治郎様や伊之助様が何を必要としていらっしゃるかを知り応えるためにも、交流をもっと増やすべきかもしれない。
「なまえちゃんみ〜っけ!…あれ?三人で何してんの?」
そうこうしていると、今度こそ本命の善逸様が帰ってきた。お饅頭の入ったお皿を抱え口にはその一つを咥えている。…お台所が正解だったか。本日三度目の「おかえりなさいませ」だ。
「善逸!お互い呼び方を改めようという話をしていてな」
「盲点でした。精進いたします」
「そ、そんなに畏まらなくていいんだが…。なまえは少し肩の力を抜いたらどうだ?」
「いいえ。鬼狩り様のお役に立つためにはもっと気を引き締める必要があります」
「いいじゃねえか。親分を立てる子分。最高に気分がいいぜ」
善逸様がくわえていたお饅頭がお皿の上にボタッと落ちた。見ると、顔を真っ青に染めていらっしゃる。
「どうされました、お味などに何か問題が…」
「なまえ〜〜〜〜〜!?!?!?!?」
「!?」
物凄い剣幕で出た自分の名前に驚いたが、その血走った目は炭治郎様を射抜いている。
私に用があるわけではないらしい。
それに、驚いたおかげで思考が切り替わり、大切なことを思い出した。
「俺ですらちゃん付けなのに!なに一気に距離詰めてんだこのスケベ炭治郎!!」
「なっ!?何を言うんだ善逸!」
お二人の会話が白熱しているが、ここには善逸様にお薬を飲んでいただくために来たのだった。
一日五回も摂取する必要があるので、これ以上遅れるわけにはいかない。
「お話の腰を折って申し訳ございません。善逸様、お薬の時間です」
「っ、はぁ〜〜わかったよお、飲むよお…」
言いながら、親分伊之助様からいただいたどんぐりを慎重に片手へ寄せ、懐から取り出した手ぬぐいでそっと包みしまい込む。
空いた手で机から薬を持ち上げて善逸様に差し出した。
「なに包んだの?」
「親分伊之助様からいただきました。どんぐりです」
「…ふぅーん、そう」
これは自分で飲む。と薬入りの湯呑みを受け取ってくださった善逸様。
叫ばずすんなりと摂取する気分になってくださったのは、すでに摂取時間が遅れ気味だったので正直なところありがたい。
一気に薬を飲み干した善逸様は、苦さのせいか不機嫌そうに眉を顰めている。
そんな状態でもお台所から持ってきたお饅頭を一つ手に取り「これはなまえちゃんの分、」と渡してくださるのだから、お優しい方だ。
苦みに耐えている時に出すべき話ではないかもしれないが、気になったことはあまり時間がたたないうちに話題に出しておいた方がいいだろう。
「あの、善逸様も、お好きに呼んでいただいて結構ですよ」
「いや俺はいいや。……呼び捨てにするのも、贈り物するのも、初めては全部俺がしたかったけど、なまえちゃんはそういうのも気にしてないんだよね」
「…?申し訳ございません、今何と…?」
「な〜んでもない。とりあえず伊之助のことは親分ってつけなくていいからね」
「…はい」
なに勝手に決めてんだ善達!と騒ぎ始めた伊之助様の横で、炭治郎様の困ったような微笑みが何故か私の印象に強く残る。
そんな昼下がりの一幕だった。