10000HITリクエスト部屋 | ナノ

こんな行動力が今まで私の一体どこに眠っていたのだろう。山を抜けた私はそこからさらに足を進め、善逸さんからいただいたお金を使って列車を乗り継ぎ、できるだけ遠くまで移動した。
そしてたどり着いた名前も知らないその街で、すぐに住み込みの仕事を探す。程なくして、心優しい初老のご夫婦のお屋敷で女中として雇っていただけたのは、本当に幸運だったと思う。

時間が経つのはあっという間だった。私はただただ懸命に働いた。最初はお世辞にも得意だとは言えなかった家事も、いつのまにかそつなくこなせるようになった。そうこうしているうちに、気付けばもうすぐ次の桜が咲く、といった時期に差し掛かっていた。一年の月日が流れたのだ。

何の特技も持たなかった人間が人並みにできるものを身に着けると、不思議なことに気の持ちようまで変わるらしい。以前より人とかかわることが億劫ではなくなっていたし、「いつもありがとう」と奥様から言われる感謝の言葉もその額面通りに受け取れるようになっていた。
それに、気持ちが前向きになるにつれて、嫌という程見たすべてを失った日の夢も、何故だかあまり見ないようになった。その代わりに見るようになったのは、善逸さんと過ごした日々の何気ない一幕たち。
蝶屋敷で初めて納得のいく包帯の巻き方ができて、善逸さんがまるで自分のことのように喜んでくれたこと。善逸さんと一緒にとびきり美味しいお饅頭を食べたこと。そのお饅頭が実は勝手にお台所から拝借してきたもので、善逸さんがアオイさんに怒られながら私へ向かって苦笑いをしてみせたこと。

そして、「俺と結婚してほしい」と言われたときの、あの。

善逸さんが本心から私へ結婚を申し込んだのかは正直わからないし、最終的には他に本命の女性ができていたこともこの目でしっかりと確認したけれど。それでも、贖罪だけを理由にあの優しさを私へ向けてくれていたわけではなかったのではないかと、今なら思える。私がもっと早くそれに気付けていれば、今とは違う未来がそこには待っていたのではないか、とも。身を起こした時に太ももへと落ちていた掛け布団を、無意識のうちに握りしめていた。

善逸さんはあの美しい女性と一緒になれたのだろうか。順調に進んでいれば、そろそろお世継ぎが産まれている頃かもしれない。あの離れで暮らす幸せそうな一家を思い浮かべるたびに、どうしても胸が軋む。
善逸さんに返すためのお金は、もう用意できていた。いただいた分に、お世話になったお礼の気持ちも載せたささやかな金額だったけれど。それでも私は善逸さんに再び会う勇気だけが準備できなくて、最後の約束さえ果たせないままずるずるとお屋敷での日々を過ごしている。

私を受け入れてくださったご夫婦は、とても穏やかな方たちだった。二人手をつないで仲睦まじく出かけて行かれるのを、お見送りしない日はほとんどなかったと思う。それくらい、仲の良いご夫婦だった。
私がこのお屋敷で働くようになってからもうすぐ一年になるといった頃、次は洗濯をしようと汚れた衣類を抱えてお庭へ出た時のことだった。お二人が並んで咲き誇った庭の桜を見上げていることに気付き、私はお邪魔にならないよう慌てて踵を返そうとした。けれど、旦那様に呼び止められてしまって渋々足を止める。

「おや、私たちのことは気にしないでおくれ。…と言っても難しいだろうか?気を遣わせてすまないね」
「い、いえ、そんな…!」
「もしよろしかったら、なまえさんもこっちへいらっしゃいな。せっかくのいい天気ですもの。一緒にお花見でもいかが?」
「そうだ!それがいい!」

ご夫婦に優しく微笑まれ、私は少しだけ逡巡する。けれどせっかくお声かけいただいたのを無下にするのもよくないと思い、結局汚れ物は一旦縁側へ置いて、そろそろとお二人へ近付いていった。
見事な桜だった。桜を見るとどうしても浮かんでしまう。善逸さんと遅咲きの桜をただ眺めた穏やかな時間のことが。

「何かを、思い出していらっしゃるの?」

ハッと桜から視線を外すと、奥様が柔らかい表情で私を見ていた。嘘を吐くわけにもいかなくて、「ここでお世話になる前のことを、少し」と微妙に濁して応える。

「そう。大切な思い出なのね。すごく優しい顔をしていたわ。ほんの少し、寂しそうでもあったけれど」

奥様が微笑みを深くしてそう言った。私は目を見開く。大切な思い出。確かに、私にとってはそうかもしれない。けれど本当に手放しでそう思ってしまってもいいのだろうか。ただただ善逸さんの人生を食いつぶしていただけの、あの日々のことを。

「ねえ、聞いてくださる?この人ったら今ではこんな感じですけれど、若い頃は相当な口下手でね。私がこの家に嫁いできてしばらく経っても、碌な会話も生まれないし、周囲からは早く世継ぎを産めと急かされるのに営みすらなくて、私は、ここに来てはいけなかったんじゃないか…ってすごく落ち込んでいたのよ」
「こらこら、何を話すんだい」
「ふふ。そんな時にね、私のもとへ仏頂面でいらっしゃったこの方が、ただ一言おっしゃったのよ。『一緒に桜を見ないか』って。最初は困惑しっぱなしだったのだけれど、空いた時間に二人で桜を見るだけの日が何日も続くうちに、私はそんな穏やかな時間がただただ幸せだと感じるようになっていたの。そして叶うならばこの方と、人生が閉じるまでずっと、こんな時間を過ごしていけたらいいと」

くすくすとまるで少女のように笑う奥様の隣で、旦那様は恥ずかしそうに目を伏せてしまっている。「この木はそんな大切な思い出がたくさん詰まった桜なの。だからなまえさんにとっても、素敵な記憶がよみがえる場所になってくれれば嬉しいわ」と奥様にまた微笑まれて、私はそっと、視線を桜の木に戻した。
善逸さんと恋人らしきふるまいは何一つしたことがなかったと思っていた。けれど、ゆっくりと桜を眺めるだけの、そんな始まり方をする夫婦の形もあるというのか。思えば私のもとへ来てくださるのは、いつも善逸さんからだった。私はもしかして、何かとんでもなく大切なものを見逃してしまっていたのかもしれない。いやまさか、そんなはずは。
上手く考えがまとまらなくて、私が「…そろそろ、仕事に戻りますね」と言うと、奥様は変わらず微笑んだまま「いつもありがとう。適度に休憩をはさんでちょうだいね」と返してくださった。洗濯物のもとへと戻りながら、少しだけ振り返る。手を握ることも、肩を寄せ合うこともなく、ただ並んで桜を見上げるお二人の後姿は紛れもない『夫婦』そのものだった。

そして、次の日。

「なまえさん、ちょっといいかい?」
「はい。何でしょうか旦那様」

そろそろ昼食の準備に取り掛かろうかとお台所へ移動していたところ、困惑した様子の旦那様に呼び止められた。

「通りで声をかけられてね。君を訪ねてきてる人がいるんだよ。知り合いだっていうんだが、心当たりはあるかな」

金色の髪をした青年、なんだけれど。そう聞いた瞬間、私は思わず、あっ。と声を出していた。私のその様子に、知り合いってのは本当なんだね、と旦那様が言う。

「どうする?会いたくないなら、適当に言って帰そうか」
「…いいえ。お渡しするものもあるので…、申し訳ありませんが、一部屋お貸しいただいてもよろしいですか?」
「もちろんいいとも。客間へお通ししておくから、君はその渡すものとやらを取りに行っておいで」

旦那様のお優しいお言葉に甘えて、私は与えていただいているお部屋へ急いで戻り、いつか、いつか…と用意だけはしてあったお金の包みを手にした。それを胸の前に抱きしめて、客間へと足を進める。ひとつ呼吸を整えてから、襖を開けた。

「…、善逸さん」
「なまえちゃん…!!」

そこには、記憶の中の彼よりほんの少しだけ大人びた顔つきの男性が一人、座っていた。

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「あら?お客様ですか?」
「ああ。なまえさんのお知り合いのようだよ。大切な話があるみたいだ」
「まあ。お茶をご用意するべきかしら」
「いや、そっとしておこう。それよりも…近く、新しい女中さんを探しに行く必要がありそうだよ」
「…そうなのですね。なまえさんはとてもいい子でしたから、寂しくなりますね」
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