むかしむかしあるところに、 | ナノ
02 人魚のお姫様は、そんな彼を一目見ただけで恋に落ちてしまいました。

恋をしてしまった。それも、人間相手に。

陸の上での生活は、どんなに素敵なんだろう。海の中でしか生きられない人魚の私は、暗い水の底から明るい海面を眺めながら、毎日そんなことばかり考えていた。
人の住む場所も、お父様たちの目を盗んでよく見に行った。昨日は波打ち際を岩の影から観察していたら、親子だろうか、女性と子供が並んで、貝殻を拾って遊んでいたみたいだった。そんなに貝殻が欲しいなら、もっと綺麗なのをたくさんあげられるのに。代わりにほんの少しだけ、人間が使うものを分けてくれるだけでいいの。

私のことを姫と慕ってくれるお魚さんやエビさんのお友達たちが不思議そうに言う。

「名前様は、こんなに素敵な海の中の生活に、どんなご不満があるのですか?」
「不満なんてないよ。ただ少し…人の世界に興味があるだけ」

私がそう答えても、みんな意味がわからないと言いたげにするだけだった。でも、私だってわからないの。なんでこんなに、陸の上に憧れてしまうのか。

そんな毎日を過ごしていた中で、私はあの人に出会った。人の住む場所を見に行こうと、浅瀬に向かって泳いでいた、その時に。何気なく上を見て、最初私は、太陽が落ちてきたのだと思った。だってそれは海面近くに差し込んだ陽光みたいに、暗い海の中に不釣り合いなくらい、あまりにも綺麗で鮮やかな色をしていたから。
でもその何かは、よく見ると人間で。鮮やかだったのは、髪と、人がみんな体に巻いている布の色だった。頭を下にしてどんどんと私のいる方へ沈み込んでくる体を慌てて抱き上げ、必死になって岸へと運んだ。

声をかけ続け、彼の意識が何とか戻ったところで他の人間が来た気配がしたので、私はまた急いで海へ戻った。だから、その後の彼がどうなったのかはわからない。あの時来た他の人間に、助けられていればいいのだけれど…。

「はあ…」
「名前様は、またため息をついておられるのですね」
「…私、あの人にもう一度会いたくて堪らないの。どうすればいいのかしら、あの人のことを考えるだけで、胸がとても痛い…」

これが、叶わない恋の痛みだとでもいうのか。仲良しのお魚さんがどんなに心配してくれても、少しも楽になることはなかった。彼との逢瀬はたったの一瞬で、言葉を交わしてさえいない。なのに、焦がれてたまらないのだ。あの太陽のようなお色のお方は、どんな瞳をしていて、どんな風に話すのだろう。
海底の岩に座って力なく俯き続ける私の周りをくるりと回ってみせたお魚さんが、「…噂で聞いたんですが、」と囁きながら、意を決した、とでも言うような表情で私の顔のすぐそばまで近付いてきた。

「最近、あちらの海の人魚が突然、不思議な力を持ったと聞きました。話によれば、陸の上を生きる術を授けてくれるとか。その人魚に、会いたい者がいるのだと願えば、あるいはーー…」

それは今の私にとって願ってもない話だった。「上手い話には必ず裏があります。何卒お気をつけて…」と心配そうにするお魚さんの忠告も、私の耳にはこれっぽっちも届いていなかった。
喜び勇んでその海へ向かうと、大きな岩と岩に囲まれひっそりと奥まった場所に、気怠げに寝そべる一人の人魚がいた。ゆらりと長い黒曜の髪に、縦に長い線が一本ずつ走ったような不思議な瞳をしている。
「…なんだい?」と不機嫌そうな彼女に少したじろぎながらも、私はこの間の救出劇や、その相手に恋してしまったことを一生懸命説明した。

「ふぅん。その恋した人間に会いたい、ねえ。それでお前は、会ってどうしたいのさ?姿を見て、それで終わりかい?」
「…難しいかもしれないけど、できれば、心を通わせたいです」

ずっと憧れていた陸の上で、あの太陽のような人と両想いになることができたら、それはどんなに幸せなことだろう。胸の前で拳を握り想いを伝えると、ずっと無表情だった人魚の顔が「ふふっ、傑作だねえ!」と笑顔を形作った。

「いいよ、挑戦する奴は嫌いじゃない。それに私は優しいから、お前に手を差し伸べてやろう。但しタダでとはいかないよ。まずは担保代わりに、…その声をもらう。お前の声はとても澄んでいて耳障りが良いからね」

びしり、と体を起こした人魚のその綺麗な人差し指が私の喉をさす。私は無意識に、指された場所を片手で撫でた。
それから人魚は、私の喉を指した手の形を変え、今度は三番の指を立てて見せる。

「お前にやる時間は三日だ。三日三晩の内にその人間と心を通わせ、証の口吸いをしてみせろ。お前がこの条件を見事満たしてその人間と両想いになることができれば、足は永遠にお前のものになる。そしたらそのあとは、誰とでも自由に、幸せに暮らしな。但し、うまくいかなければーー…」

そこで一旦言葉を切った人魚の整った顔がニマリと怪しく歪んだ。

「──私が、お前を喰ってやる」

悪寒が身体中を駆け巡る。私はもしかしてとんでもないことをしでかしたのではないのかと、ここで初めてそう思った。そんな私の前で、人魚は先ほどまで寝そべっていた岩の影から手のひらの大きさの何かーー後に知ったがこれは人の使う道具で、壺、というらしいーーを取り出した。

「これが、薬だ。陸に上がってから、これをヒレに振りかけ太陽の光を浴びるんだ。しばらく待てば、自由自在に歩ける足が手に入るだろう。その先はお前自身の力で何とかするんだね」

自由自在に歩ける足。そんなものがあれば、私はずっと憧れるしかできなかった陸の上の生活を心ゆくまで満喫できる。それに、そうなった暁には、私のことを好きになってくれたあの人が隣に居るんだ。「どうする?とっとと決めな。私は気が長くないんだ」と、人魚が苛立たしげに急かす。せっかく取り出した何かを元の場所へ戻そうとした背中に、私は慌てて声を張り上げた。

「やってみます!その薬をください」

このまま海の底で一生、陸上の生活に憧れ腐っていくだけなら、この微かな可能性に賭けてみたい。
先ほどまで気怠げだった人魚の動きが途端に機敏になった。薬を受け取る代わりに、喉から何かが抜けていくのを感じる。ぱくぱくと口を動かしてみても、長年聞き慣れた声はもう出ない。

「ほら、さっさと行きな。せいぜい頑張るんだね。…楽しみにしてるよォ?」

こくりと頷いてから丁寧にお辞儀をして、早速陸地を目指し泳ぎ始めた私の後ろ。その人魚が「人間と同じくらい、人魚も美味いからねえ…」と小さく呟きながら舌なめずりをしていたことを私は知らない。

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