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あの時見た光景
1 / 3 英聖学院大学部の図書館棟三階には視聴覚AVブースがある。つい立てによって仕切られたそれぞれの席にはブルーレイドライブ搭載パソコン、ビッグサイズ液晶モニター、ノイズキャンセリング機能付きヘッドフォンなどあらゆる機材が完備されており、それがざっと30席ほど並んでいる。一人用の席の他にも二人用、三人用などの席があり、さらにはグループワークができるよう完全個室化されたブースも複数ある。 ある日の放課後、その一人用ブースに高等部の制服を着た梨子がいた。ヘッドフォンを耳にかけ、画面に集中している彼女の手にはシャープペンシル。手元の机には走り書きがされたルーズリーフが数枚。 目と耳に全神経を集中させている梨子。外のことは完璧にシャットアウトしていたので、誰かの手がヘッドフォンを取り上げるまで全く気配に気付かなかった。 「え、あっ!」 流れていた音楽が途切れ、ヘッドフォンによって圧迫されていた梨子の耳に新鮮な空気が触れた。何事かと驚きを隠せない表情のまま後ろを振り返ると、 「恵介先輩……」 そこには梨子のヘッドフォンを手にした恵介が立っていた。 「…………よう」 そっけない挨拶をした恵介に梨子はパチパチと数回まばたきをしたあと、 「こんにちは、恵介先輩」 椅子をくるりと回転させて恵介の方へと向きを変えた。 「……お前、ここで何やってんの」 「あ、えっとですね、授業で」 「あー、恵介何やってんの。随分トイレ長いなと思ったら」 答えようとした梨子の言葉を遮りながらやってきた新たな人物。 「うるせぇよ、潤」 塚本潤だ。眉間にシワを寄せる恵介とは対称的にニコニコ顔でやってきた潤は梨子を見つけてさらに笑顔になる。 「あれれ。梨子ちゃんこんにちはー」 「こんにちは、潤先輩」 「奇遇だね。こんなとこでどしたの」 「はい。ちょっと授業で出された課題のレポートについて調べてるんです」 そうなのだ。梨子が大学部の図書館棟にいる理由。それは課題のレポートを作成するためだった。 「あ、それって中川先生の授業?」 「え、はい。そうですけど……」 「ああ、やっぱり。どうりで高等部の子たちやたら見掛けるなと思ったんだ。俺らもやったよ。ある作曲家についてストーカーのごとく徹底的に調べあげるやつだよね」 「そうです!」 教師がお題として提示する複数の作曲家の中から任意の一人を選択し、その人物について徹底的に調べるというのが今回のレポートのテーマであった。 「例年この時期だもんね。高等部の図書館じゃ資料足りないからね。そっか、今年もこの季節がやってきたかあ」 「梨子は誰について調べてんの?」 「えっと、この人です。私は三番の人で」 梨子がお題となる作曲家たちがラインナップされているプリントを潤と恵介に渡した。それを見た二人は 「うわー、これはまた……」 「マニアックどころの騒ぎじゃねぇな」 この中川先生のレポートのお題とされる作曲家の中に有名な人物は一切入ってこない。ほぼ毎回マイナーな作曲家ばかりがラインナップされるものだから、参考文献が少ないために生徒たちは毎年苦労を強いられるのだ。 「文献少ないでしょ」 「はい。全然なくて困ってます」 「いや、でも梨子ちゃん良い人選んだよ。この中では一番マシだと思うよ」 「そんな複雑な経歴持つやつじゃないからな。調べやすい方ではあると俺も思う」 「五番に手つけてる友達いたら今からでも止めてあげた方がいいよ。文献ほとんどないから。絶対泣く」 知名度の低いはずの作曲家たちの選択についてさらりとアドバイスをする二人に梨子は感心した。さすがは英大音楽科のエリートたちである。その知識量は計り知れない。 「思い出すなあ。もう六年も前かな?五番には本当に苦しめられたしねぇ」 「え?!潤先輩も?」 「そう。その五番選んでリアルに泣きそうになったのは俺なの」 今じゃ良い思い出だけどね、と言って潤は笑った。 「こいつ名前の響きが良いとか言って超適当に選びやがったから」 「いやいや。まったく見ず知らずの人を字面だけで選ぶとしたら、判断基準はそうなるでしょう」 「それでレポートはできたんですか?」 「全然。どうにもならないことにようやく気付いてターゲット変更して無理矢理仕上げたよ。締め切り三日前だったかな。いや、人間やればできるんだなと思ったよ」 提出期限間近になってようやく気付いた自分の置かれた状況。いつまでも真っ白な画面を見てようやく悟った。これ以上は無理だと。今となっては笑い話にできてはいるが、あの時の危機感は二度と経験したくはない。 |
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