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その手と瞳と温もりと
1 / 1 通常、隼輔の朝は早い。サッカー部の朝練があるからなのだが、今日は昨夜から降り続いている大雨のために朝練は中止となった。 それによっていつもより一時間半も多く眠ることができ、久しぶりにのんびりとした朝を過ごすことができた。 シャワーから上がって髪の毛は半乾きのまま、Tシャツとスウェット姿に頭からバスタオルを無造作に被った格好で家の中の廊下をバスルームから自室へと向かって歩いていた。 そんな感じで気分よく優雅な朝を過ごしていた隼輔だが、自室の扉を開いた瞬間、目に飛び込んできた予想外の光景に思わず固まってしまった。 制服姿のまま隼輔のベッドの上に勝手に寝転がりゴロゴロとくつろいでいる梨子を見て、隼輔は眉間に皺を寄せた。 「あ、おはよう隼ちゃん」 隼輔に気付いた梨子は身体は俯せのまま顔だけを彼に向けてにこやかに挨拶をした。隼輔は頭に被ったバスタオルを取りながら梨子へと歩み寄る。 「おはよう、じゃねえ。何で梨子が俺の部屋にいるんだよ」 「何でって……お迎えだよ?」 「迎えなら俺が行くし。第一まだ全然時間早いだろ」 「だって早く起きちゃって、時間いっぱいあったんだもん」 「……暇なら蒼輔か涼ちゃんのとこ行けよ」 「蒼ちゃんも涼ちゃんも今日は早い日だもん」 涼と蒼輔はそれぞれ生徒会の仕事と弓道部の朝練のため、今日は早く家を出て行った。大輝と優希はまだ寝ている時間だ。 「来ちゃダメだった?」 どうして隼輔がそんなに不機嫌そうな顔をしているのかわからず、梨子はキョトンとした顔で首を傾げた。その表情と仕種の可愛さに思わず隼輔は流されてしまいそうになったが、首を振ってなんとかこらえる。 「いや、ダメっつーか……俺これから着替えるんだけど」 「私のことは気にしないで!どうぞお構いなく」 「梨子はよくても俺が構うんだよ」 別に全裸になるわけでもないし、着替えを梨子に見られて恥ずかしいわけでもないが、梨子がこうも恥じらいを見せないとなると自分はまったく男として意識されていないのだと悲しくなってくる。 「そうなの?じゃあアッチ向いてるー」 腑に落ちないという顔でそう言いながら、梨子は隼輔の枕をぎゅっと抱きしめ、寝転んだまま隼輔とは反対の壁側を向いた。 そんな梨子の姿を見て隼輔は一度ため息を吐いてからTシャツを脱いだ。 そしてそれをいつものようにベッドへと放り投げる。しかし今日はそこにはいつもと違い梨子がいて、隼輔の投げたTシャツはバサッと梨子の頭の上へと落ちた。当然、隼輔は狙って投げたのだが。 「わっ!」 驚いた梨子は頭にかかったTシャツを手に取りつつガバッと勢いよく起き上がってすぐ隼輔を睨んだ。 「隼ちゃん!」 「あ、ワリ。気付かなかった」 「もう!ぜったいわざとでしょ!」 全く悪びれている様子のない隼輔に梨子は頬をぷくっと膨らませると再び枕を抱きしめて隼輔に背を向けるように横になってしまった。 隼輔は上半身裸のままクローゼットに背中を預け、腕を組んで梨子の小さな背中を見つめた。 「梨子」 呼び掛けても全く反応はない。完璧に拗ねてしまっている梨子に隼輔はため息を吐きながらベッドへと近づく。 「梨子ー」 もう一度呼び掛けてみるも結果は同じ。呆れた隼輔が両手をベッドの上へ乗せるとスプリングが軋み、梨子の肩が一瞬震えた。 梨子の顔を覗きこもうとするも、広いベッドの端っこの方へと寄ってしまっているため全く見えない。 仕方がないので、隼輔はベッドへと上がり、両手を梨子の背中と枕を抱きしめている腕の前、つまりは梨子の身体を挟むようにして両手をついて彼女を上から見下ろした。 「梨子、なにそんなに拗ねてんの」 「……拗ねてないもん」 ようやく返ってきた反応。しかし梨子は完全に枕に顔を埋めてしまっているため表情が全くわからない。 「でも怒ってる」 「……だって、隼ちゃん意地悪するんだもん」 「アレは俺が悪かったよ」 隼輔が本気の謝罪をしたところで、ようやく梨子は枕をずらして目から上の部分だけ顔を見せた。 「……せっかく楽しみにしてたのに」 悲しそうな目で梨子は隼輔を見つめた。 「は?何を?」 「隼ちゃんと学校行くの久しぶりだったから……」 だから嬉しくて……、と語尾に向かってどんどん声が小さくなっていったが、隼輔はなんとか全て聞き取ることができた。 「梨子……」 梨子は少しだけ目に涙を浮かべてじっと隼輔を見た。隼輔も梨子から目線をはずすことができない。 「楽しみにしてたの、私だけだもん」 たかが一緒に登校できるだけでそんなに楽しみだったというのか。確かに梨子と隼輔が高等部に上がってから一緒に学校へ行ったのは入学式の日だけだったが。 隼輔は顔に熱が集まるのを感じた。というのも、 (この体勢でその顔でンな可愛いこと言うなよ!) この体勢とは隼輔が梨子を上から見下ろす体勢。その顔とは目に涙を浮かべながら少しだけ赤みがかった梨子の顔。ンな可愛いこととは梨子の隼輔と学校行くのが楽しみだった発言のことだ。しかも、 (忘れてたけど俺いま上に何も着てねぇし!) 条件が揃いすぎている。何の、とは言わずもがなである。 (俺じゃなかったら今頃完璧にやられてんぞ) ダテに何年も大事に守ってきたわけではない。隼輔の鉄壁の我慢強さはそうやすやすとは崩れない。 「梨子だけじゃないよ」 隼輔は黙って見つめる梨子の頭をゆっくりと撫でた。 「俺だって梨子と学校行けるの、すっげぇ嬉しいし」 「……ほんと?」 「ほんと」 優しく微笑みながらそう返した隼輔を見て、梨子の表情は一気に明るくなる。 「だから機嫌直せ」 「もう直った!」 「単純だな」 「隼ちゃん!」 「わっ、バカ、枕投げんな!冗談だよ!」 梨子が枕を投げつけてきたが、隼輔はギリギリ腕でガードをしたので顔面衝突は免れた。 「すぐ準備すっから待ってろ」 「わぷっ」 隼輔はお返しとばかりに梨子の顔に軽く枕を押し付けてベッドから下りた。 隼輔はシャツを羽織り、真ん中のボタンを一つだけ留める。そしてスウェットを脱いで制服のスラックスを履いた。 その中途半端な格好のまま半乾き状態だった髪の毛を乾かすために部屋に備えつけの洗面所へ向かう。 そして数分後、隼輔が洗面所から出てきてすぐにベッドに横になっている梨子を見ると、さきほどと体勢が反対向きに変わっていた。さらにその目は閉じられていて。 「え、マジで?」 隼輔がそっと梨子に近付くと、スースーと規則正しい寝息が聞こえた。 「俺が離れてから十分も経ってねぇし」 梨子が眠りにつくまでのあまりの早さに隼輔は呆れたように呟きながらベッドへ腰掛けた。 ふとベッドの傍の床に置かれている鞄とヴァイオリンケースに目をやる。それから左腕で枕を抱きしめて気持ち良さそうに眠る梨子へと目線を移す。 「元気装ってっけど、本当はあんまり寝てないんだろうな」 最近の梨子は学内オケのために家でも学校でもとにかく練習室にこもって練習していることを隼輔は知っている。それこそ寝る間も惜しんで。ただでさえ梨子は元々練習のムシだったのに、最近はそれにさらに拍車がかかっていた。 「眠いなら、家でもう少し寝てりゃいいのに」 まだまだ眠る時間はあったはずなのに、それでも自分を優先してくれたのかと思うと隼輔は嬉しさがこみあげてくるのを感じた。 「無理してんじゃねーよ、馬鹿」 そう言いながら身体の横に投げ出されている梨子の手に自分の手を重ねた。するとそれを小さな手がキュッと握りしめた。 「……これじゃ離せねぇだろーが」 無理矢理離せば梨子が起きてしまう可能性があるが、それはただの建前であって、実際はもう少し梨子の手の温もりに触れていたいだけなのだ。 隼輔は壁にかかった時計を見た。家を出るまでにはあとほんの少しだけ時間がある。 「十分だけだからな」 目覚めた君の瞳に最初に映るのは、きっと自分の姿。 たったそれだけのこと。 けれど自分にとっては大切なことで。 それを考えただけで、胸が熱くなるのを感じた。 その手と瞳と温もりと 子猫ちゃん二人組でじゃれあってみた。 (2010/05/31-2010/07/04)
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