僕と一緒にいることが辛いだなんて、可那子さんがそんなそぶりを一度だって僕に見せたことがあっただろうか。彼女はいつも僕の傍で幸せそうに笑ってくれた。僕はその笑顔に何度救われたか分からない。
「付き合う前さ、夜、一緒に帰ったことあったよね? ……”嘘"について話した日。
あの日まーちゃんが私たちのことを見かけてたの。私はまーちゃんと目が合ったの」
初めて聞く情報だ。僕は思わず顔を上げて可那子さんの方を見る。
怖い、でも、その先が知りたい。
「すごく驚いたような顔してたの。そして悲しそうで、辛そうな顔をしてたの。
それを見て私、少しだけ嬉しいって思ったの。私、そんなまーちゃんに……笑って返したの」
思いの強さが君に近づく女を心の中で殺してしまうんだ。何度も、何度も、それだけでは、飽き足りないくらいに。
――特別は、ただ一つだけの事を言うのよ。うそつき。
(ああ、そういうことだったのか)
気にも留めないほどに小さく散らばっていたピースが繋がる。
左良井さんは心の中で何度も何度も、可那子さんを殺していたということなのだろうか。
左良井さんは夜二人で話す僕たちを見て、夜二人で帰る僕たちを見て、特別だと思い込んだのだろうか。その時の僕が可那子さんに話しかける表情が、何か特別なものに見えてしまったのだろうか。
そう推察することは、僕の思い上がりなのだろうか。
「最初は好きな人の近くにいられるだけで嬉しかった。謙太くんと初めてキスした日も、謙太くんから抱きしめてくれた日も、勇気出してよかったなって思った。
でも……私がわがままだからかな?
近くにいるはずなのに、謙太くんとの距離は最初から全然変わらない」
“なぜ突然こんな話を?”
この疑問を抱くことが間違っていたようだと僕は悟る。これは全く突然なんかじゃない。可那子さんのゴロゴロとした思いは、ずっと前から少しずつ積もっていたんだ。それを今日、開放しにきただけなんだ。
“だけ”
そんな風に言うのはきっと無礼極まりないんだろうけど。
「ああ、私は謙太くんの邪魔してるだけだなって思った。私はもう十分楽しかったなって」
そんなことない、と叫んだのも心の中までだった。
可那子さんの笑顔でいくら癒されたか分からない。可那子さんの料理で何度心を満たしたか分からない。でも今しがた可那子さんが話してくれたように、左良井さんを特別に思う僕の気持ちはまったくの真実であり否定の余地などどこにもない。
彼女は自分の口で”その瞬間”を言おうとしている。
それを止めるのが正解なのか?
何も言わずに受け入れるのが正解なのだろうか?
「謙太くん、優しいんだもん。私から言わなきゃきっと、ずっとこのままなんでしょう?」
膝で器用に歩きながら僕に近づき、僕の髪を壊れ物のように優しく扱う可那子さん。僕のまぶたをそっと撫で、僕は目をつむることを強いられた。
「楽しかったよ、すごく。これは本当」
声も、指先も震えてる。唇の温もりを僕のまぶたに残して、気配はゆっくりと僕から離れていく。
「僕も、楽しかった」
彼女の笑顔をずっと近くで見ている事が出来たのに、
「……バイバイ、謙太くん」
最後に彼女の涙を拭ってあげる事は叶わなかった。