あかりがまぶしい
2.新入生歓迎会
08
 どうしてこれほどまでに彼女のことが気になるのかが、僕自身分かっていなかった。ただ、入学式のときに見た彼女の横顔が、彼女の振る舞いや言葉の一つ一つが、僕の興味をクリティカルにつついているのは事実だった。僕の肩につかまって歩く彼女の足取りは、しっかり固まっているはずのアスファルトの上で不安定に踊る。
「どこなの? もうすぐなの?」
 僕の質問にはいっさい答えてくれない。「真っ直ぐ」「そこ右」という風に必要最小限のことだけ喋って、それだけ。
 思い起こせば早いもので、入学式からもう二ヶ月が経とうとしている。この辺は六月になってもまだ長袖でいられる気候だ。しかし人に肩を貸しながら少し距離を歩けばさすがに、その運動とその人の体温とで汗がにじんでくる。
 ようやく部屋の前に着いた。何度も鍵の向きを間違えるような怪しい手つきで彼女が鍵を開ける。扉をくぐると、彼女は靴も脱がずに廊下に倒れこんでしまった。
「ちょっ……せめてベッドで寝てよ、ね?」
 半ば呆れて僕は彼女をたしなめる。
「……気持ち悪い」
「え?」
「吐きそう」
「え」
 僕はそこが女の子の部屋だということも忘れ、トイレを探して扉という扉を開いた。まあ、所詮一人暮らしのアパートな訳で、そこまで広い部屋じゃないからそういくつも扉はなかったけれど、クローゼットの扉を開けてしまったあたり僕も相当慌てていたのか、多少は酔っていたのかもしれない。
 暗い廊下で、手探りで明かりのスイッチを探す。
 彼女を再び肩に担ぐと、うっ、と彼女がうめいた。
「左良井さん、トイレ行くまでは我慢してね!」
 なんで僕はここまでこの人を介抱しているのだろう。トイレに辿り着いてげほげほと咳き込む彼女の背中をさすりながら、酔いと共にそんな疑問が頭の中をぐるぐると巡る。
「水……」
 そう呟いて僕を見つめた彼女の苦しそうな瞳が、図らずも僕を真っ直ぐにとらえた。その視線に、僕の心は不安とは少し違う感覚でざわめき、何か冷たいものが僕の背筋を上から下へ走った。そんな心境を悟られまいと、僕はキッチンを目指して部屋の奥に小走りで向かう。奥に進むと、彼女の香りがいっそう強くなった。女の子の香りだ。
 流しの脇に逆さに置かれたコップを掴み取り、そこに流水を注ぐ。急いで戻ると、彼女は一旦収まった嘔吐感をなだめるかのように呼吸を整えていた。
「……ありがと」
 コップを受け取るときにそう呟いた声の弱々しさ。
 一口飲んで一息入れる。たまに吐き戻したりもしたけれど、ゆっくり時間をかけて彼女はコップ一杯を飲みきった。



 ようやく落ち着いた彼女をベッドまで誘導する。横になったところで辛いことには変わりないのだろうが、一度眠ってしまえばしばらくは安静でいられるだろう。
 彼女は目をつむったまま呼吸をしている。たまにうめき声を上げているから、きっとまだ眠れていないのだろうと分かる。人の寝顔を見るのはいい趣味じゃない、物音を立てないように帰り支度をする。
「黙られると、辛い」
 狭いこの部屋の中でさえ響き渡らない、しかし僕にはかろうじて届いた彼女の声。
「何か、話して。……なんか寂しいから」
 就寝前に物語をねだる少女のようなセリフだ。しかしその弱々しさと気怠さで、普段のイメージとはほど遠い響きになる。
 そういわれると、立ち退くことが罪深い。僕が帰り支度をしていたことに気付かないでそう言ったのかもしれない。仕方ない、とソファの上のクッションを一つ失敬して床に座り込む。さて、何から話そうか。
「……今日はいい反省になったでしょう?」
「うん」
「今度からは自分のペースで飲もうね」
「……うん」
「左良井さんが飲み会に参加したこと自体驚きだったけど、」
「うん」
「酔いつぶれるなんてもっとびっくりだ」
「うん」
「それを僕が介抱することになるとはね。世の中何が起こるか分かんない」
「……うん」
 さっきから「うん」しか言わない彼女。それが返事なのか苦悶のうめき声なのかを聞き分けるのは至難の業だった。
「そんなに楽しかった? 歓迎会」
「わからない」
 彼女は僕の質問に「うん」意外の言葉で答えた。そして彼女の方から聞いてきた。
「越路くんは、この分野好き?」
「人付き合いのこと?」
 枕と頭との摩擦の音をゴソ、とさせて彼女は首を振った。
「ううん、学部とか、学科のこと」
 話が唐突で脈絡がないのは、彼女が酔っているからだと思った。
「好きじゃないと、選べないと思うよ」
 僕は思う通りに答える。大学は、そういうところだと思っているから。
「左良井さんは、好きじゃないの?」
「好きだよ」
 即答だった。なら、なぜそんなことを聞くのだろう。
 聞くより先に、彼女が話しだした。目をつむったままで、それはまるでうわ言のような告白だった。
「好きだよ、だから選んだ。――だけど、行きたかった学部じゃない」
 静かな語り口。僕は、先ほどと似たような心のざわめきを覚えた。
「行きたかった学部はここじゃない、他にあった。でも私はそこに行けなかった。だから好きなことを学べるここを選んだ」
 ふう、と彼女は細くて長い息を吐く。
「この歓迎会が楽しかったどうかなんてだから、わからない」
 彼女は苦しいはずなのに、語ることをやめない。僕が口を挟むいとまもない。
「『行きたかった』っていう思いが本当に自分の中からわき起こっていたものだったかも、もうよくわからない。足りない偏差値を埋めようと頑張って、センター試験で見事に失敗して。それでも筆記試験に臨んだけど、やっぱりだめだった」
 彼女の話は、彼女が泥酔していることを差し引いたとしても、とてもよく整理されていた。
「だから私はここにいるの。失敗してなかったらここにはいないの」
 きっと彼女は、心の中で何度もこのことを反芻していたに違いない。
 そして彼女は繰り返す。
「この歓迎会が、楽しかったか、どうかなんて」
 さっきと同じセリフを、文節を細かく刻みながら。
「だから、わからない」

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